跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/01 BGM: The Style Council - Shout To The Top

今日は遅番だった。今朝、バタバタしつつスタイル・カウンシルの往年の名曲をあれこれ聴きながらベンジャミン・クリッツァーの実に目覚ましくすばらしい1冊『モヤモヤする正義』を読み終える。この本の中で、著者のクリッツァーは俗に言う「弱者男性」をめぐる議論をそのコンテンツの1つとして縦横無尽に展開している。実は、はばかりながらぼくも今年49になるのだけれどこれまで結婚したことはなく、それどころか目立ったロマンスもなにもこれまであったものではなく、なんだか思い返すに実に色気のない人生を歩んできた。だから、クリッツァーの誠実で真面目な議論から啓発されるところも多く、実にタメになったことを認めたいと思う。こうした誠実さ・理性的な態度は貴重だ。だが、どこかでぼくは(たぶんこれは無意識・勘の領域の判断によるものと思うが)「鵜呑みに」「早合点で」この本を呑み込みたくないなとも思ってしまう。よく議論を「吟味」「熟読玩味」して、まずそもそも上に書いたような来歴を持つぼく自身のことについて、「弱者男性」の一員の可能性はありうるのか・ありえないのか考えるところから始めたいと思ってしまった。

こうした抽象的な、いっけんすると生活とはかけ離れた空理空論のようで実は重要なトピックというのはその性格上相対的になかなか議論がむずかしい。ぼくの所属するLINEグループのいくつかにこの本についての話題を投稿し、そこから何人かのメンバーが返信を返してくださったので議論・対話を楽しむ(こういう場合、スタイル・カウンシルの洗練された・二枚腰の音楽は実に役に立つ)。この事実は、ぼくがまだコミュニケーションについて可能性を見出し他人とねばり強く対話することでなにかを勝ち取る・見出すことをあきらめられていないということなのかなとも思ったりした。それも1つの原因で、したがってそれもあってこうやって英語を学ぶのだろう。

再度、こんなことを問い直す必要があろう。ぼくはほんとうに「弱者男性」なのだろうか。いや、そう言いたい・居直りたい気持ちは山のようなる。政府や権威にたいして金くれだのなんだの言い募りたい気持ちだってけっして無縁とは言わない……そこまで(いや、この日記と向き合ってくださっている読者はおわかりのとおり)ぼくは聖人君子でもなんでもない。でも、世界を見るとそんなぼくの所属する肉体的な性「男」がまだ世界を上位の立場から支配・管理していること、そしてそこから「男性上位」な風潮がありうることをぼくは認めたいとも思う。ならば、ぼくはそんな「男性上位」の風潮・傾向に「男だから」という理由で「タダ乗り」してしまっているとも言えるわけだ(「ゲタを履かせてもらっている」とも言えるかもしれない)。そんな「パワーゲーム」から降りられないか。あるいは、変えられないか。

仕事を始めた後休憩時間になりもっと議論をLINEで楽しみ、ついつい熱中してしまう。動物たちの世界・生の中では「オスの社会」というものが存在して「強いオスは生き残れ」的な空気に満ちているとぼくは見る。この日記(つまりこの文)を書いているこのぼくからすれば、このムードは「ぼくだって」とてもキビしくてシビアで、毎日楽しく・気楽に生きるにはなんらかの「圧」が強すぎるとも感じる。したがってとても生きづらい。ならばフェミニズムに可能性を見出してこんなぼくのような50歳になりかけの男を救ってくれることを期待すべきか。いや、さすがにこれは軽薄過ぎる筆致になってしまったが、ぼくも女性の生きづらさ・苦しみを学ばないといけないとも思うのでフェミニストから虚心に学ばないといけないととは思う。だが一般論を言えば、どんな主義や思想にしても「正しすぎる」「厳しすぎる」性格のイデオロギーには近寄りたくないのだった。そんなだから「ヘナチョコ」「男らしくない」と言われちゃったりしちゃったりするのかな、と思う。いや、これはほんとうに真面目な話だ。