多様性が進み、すでに男が支配されてきたマッチョな美学が解体されようとしているいま、そんな指導は「問題あり」ということになろう(さすがにいまの視点からその先生を一方的に・アンフェアに断罪したいとはまったくもって思わない。その方はいい先生だった)。言いたいのは、当時はそんな感じで人前で泣くに泣けず「男らしくなくては」「強くならなくては」「泣き言は言っちゃいけないのだ」とプレッシャーに耐えて耐えて耐え抜いて、そんなシビアきわまりない時代・状況を生き延びなければならなかったのだということだ。その後、この日記でも書いてきたとおり20代・30代をまさにひどい弱さを持て余すことになり、アルコールの沼というか海というかなんというか、なにはともあれそんな蟻地獄にはまり込んでエラいことになってしまったりもしたのである。ああ、それもまた人生。
さいきん読んだ、これまた実にまことにすばらしい1冊である菅野久美子『孤独死大国』の影響もあってふたたび、どうやって自分が持っている弱さを大事に扱うか考えるようになった。過去、昼日中であろうとなんだろうと呑まなきゃやってられなかった時代、ぼくはそれこそ憎悪や自己嫌悪を込めた暴言や罵詈雑言をTwitterやブログで垂れ流して恥じなかったものだ。当時はリアルでコネクション(交友関係)を持たず、ネットの交友関係があったとはいっても「ブロックすればハイさよなら」的なきわめてあっさりしたたぐいの実に「気安い」というか、悪しき意味での「バーチャル感覚」に満ちたものだった(「悪しき意味での」、である。ぼくは「バーチャル感覚」にもいいところはあると考える)。ある意味ではそんなふうにしか毒を吐く場所を持てなかったということになる。発達障害のこと、愛のこと、性的なこと、仕事場のグチ、将来の不安、その他もろもろ。
いまの、とりわけ年若の読者の皆さんはこんなことを読まれると「バカげた話だ」と一蹴されるかもしれないが、それでもぼくは男として自分がいかに男らしさ・男の美学を刷り込まれ(ある意味では「過剰適応」すら試みて)セクシャリティの幻想(夢物語・ファンタジー)を文字どおり満身創痍になりながら生き抜こう・生き延びないといけないと思い込んでしまったか、そんなことを考えてしまう。男たるぼくは強くならなくてはならない、泣いてはいけない、グチも言ってはいけない、女性に優しくならなくてはならない、フェミニストにならなくてはならない、などなど。ならばどうなればよかったのか。ぼくは結局クリント・イーストウッドでも高倉健でもない。それを恥ずべきこと、男性失格とののしられるなら白旗を揚げて「ガキンチョ」「未熟児」として生きると居直るしかない……いや、さすがにここまで来ると被害妄想になる。たしかに言えることは、強くない人間、弱っちくていつだって傷ついている泣き虫中年がこの日記を書いている、という端的な事実である。
仕事を終え、夜になりバンバンジーを食べる。その後Zoomミーティングに参加し、晴れてぼくのプレゼンテーションを行う。そしてメンバーの皆さんといっしょに英語学習について語らう。日本語教師の方や英語学習に打ち込まれている方、いろいろな方のユニークな意見が聞けて実に得難い・ありがたい機会になったと思った。