お昼、うどんを食べながら考えた。自分は結局左翼として生きてきた。そして恐らくは左翼のまま死んでいく。でもどうして左翼思想に惹かれるのだろう。それはわからない。私は実を言うと、恥ずかしながらマルクスを知らない。ドゥルーズもフーコーも知らない。不勉強の誹りを免れ得ない人間だ。ただ私は自分のような弱者への救済が施される思想が右翼/ナショナリズムではなく左翼/リベラリズムであると信じて生きてきた。国という崇高な概念にすがるのではなく、もっとピースフルな概念を信じて生きていきたいと思ったのだった。
私はそんなアホな人間なので、自分の信じる思想/イデオロギーを形作った素材も思想書ではなくもっと怪しげなものであることを告白しなければならない。私の生きる上での指針を形作ったのは20歳頃に聴いたフィッシュマンズやブラーの音楽であり、漫画だと『あずまんが大王』であり小説だと村上春樹『ノルウェイの森』や保坂和志『プレーンソング』や高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』であり、映画だと小津安二郎や是枝裕和や黒沢清、北野武である。堀江敏幸や十河進のコラムからも影響を受けた。私はそうした雑多な事物がハンバーグの種のようにグチャグチャに組み合わさってできた存在だ。
そうしたハンバーグの種としての私のレアな思想が、上野俊哉のようなオールドファッションな左翼の思想書の影響で自分自身を肯定しハイブリッドな存在としてできあがったのが私という存在である。ゆえに純粋無垢な左翼からは私は右翼あるいは冷笑主義であり、右翼からは私は左翼かつリベラルであるだろう。だが、犬や猫の雑種/ハイブリッドがいかにしぶといかを考えてみればわかるように、思想も雑種/ハイブリッドこそがしぶといのである。私はこれからも右でも左でもないチャールズ・ブコウスキーのようなしぶといクソジジイとして生きていくのだろうと思う。
今日は早番で仕事をした。帰宅後、茂木健一郎『脳とクオリア』を読む。宮台真司が社会学の世界で見せる情熱的な態度にも似た茂木のクオリアをめぐる情熱に圧倒される。この世の中に数多と偏在するクオリア。私が今日食べた棒々鶏の旨味も、今聴いているスウェードの音楽の淫らな戦慄も(褒め言葉です)、クオリアでありそれ故に尊い。それは脳のニューロンの発火現象であると語って済ませられるものではないだろう。この世に上野俊哉やスウェードの作品があること、私の人生がそうしたアートや思想と接触したこと。私の中のテツandトモがまた「なんでだろう~」と歌い出す。