跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/07/07

昨日見た千葉雅也のツイートを思い出した。レストランで料理が番号で呼ばれる光景。かけがえのない一品一品の料理が番号で処理されることを、果たしてどう見るか。そこに資本主義や競争社会の論理を見出すことをナイーブ/青臭いと嗤うのは容易い。だが、私はそうした思いつき/ひらめきを吐露してしまう資質こそ哲学者に必要なのではないかと思う。私自身考えさせられた。資本主義を拒否して生きるべきなのか、歯止めをかけられるとしたらどういう共通認識を介してなのか。私自身そうした資本主義の末端にいる消費者として思いを馳せる。

話はズレるが、私自身そうした資本主義あるいは競争社会が要請する「成功」のイメージに乗せられていたことを思い出す。より偉く、より大きく……金持ちが偉い理由というのはそうした「資本主義社会においてより多く消費した人間が偉い」ということではないかと思うのだ。いや、マルクス資本論』なんて読んだこともないのでド素人の戯言を語っているにすぎないのだが、私自身身にしみないマテリアル/物質主義的な成功のイメージを追いかけ、ネットでより偉くなりたいとバカなことを試みたことを思い出すのだった。

消費する人間が偉い、という風潮。私はいつしか、そうした風潮に背を向ける生き方を選ぶようになった。いや、サブスクリプションで効率的に映画を見てイオンで安くショッピングを楽しんでいる尻から何をたわけたことを言っているんだと思われるかもしれない。資本主義社会に完全に背を向けて生きることは私にはできないけど、ガムシャラに稼いで偉くなって消費/浪費して……という生き方とはまた違った生き方を選ぼうと思うようにもなったのである。いやまあ、それ以前に私が端的に「稼げない人生」を生きていて、それ故にそんな人生を生き抜く過程で「人生を〈半分〉降りる」(中島義道)ことになってしまった、というのが正直なところだが。

そんなわけで、今日も今日とて図書館で借りた茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』を読んでスチャダラパー『5th Wheel 2 The Coach』を聴いた。そして私なりに「この私を生み出している脳とは何なのだろう」「茂木健一郎が言っている『クオリア』とはサルトルが見出した実存の手応えに相当するのだろうか」というようなことを考えたのである。やれやれ、47歳になっても私はこんなふうに夢想家として生きている。果たして自分は「稼がない」で生きているのか、それとも単純にアホすぎて「稼げない」のか。最近は別に後者であっても「ま、しょうがないかな」とも思うようになったのだが……。