サイゼリヤに来たら、番号を記入した紙を渡す形式になっていた。ライス大盛りに一つの記号列が割り当てられている。ひどいと思った。世界は本当に寂しいところになった。これでいいと本気で思っているんですか、本当のところはどうなんですか、と叫びたくなった。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) 2022年7月5日
朝、千葉雅也のツイートを目にする。サイゼリヤの料理が番号によって扱われているという内容。かけがえのない一品一品心のこもった料理が番号という無個性なものに置き換えられる瞬間の暴力性を捉えたという意味で、私は皮肉抜きで千葉氏の鋭敏な感受性を見る思いがする。だが、問題はそうした千葉氏と「番号で料理を処理する世界を当然と見なす世界」の間に見過ごせない断絶が存在していて、千葉氏の懸念が届かないことなのではないか。千葉氏の立場や見解を尊重する姿勢抜きに、早くも千葉氏の言葉がネタとして消費されているその光景。そんな光景の中に、私はまざまざと暴力性を見出す思いがする。
今日は遅番だった。午前中、いつものようにイオンに行き茂木健一郎『クオリアと人工意識』を読もうとするも頭に入らない。不安を感じ、孤独をも感じる。おかしなものだ。LINEやFacebookやWhatsAppといったソーシャルメディアで私はたくさんの人たちとつながっている。だが、今朝のような誰かと話したい時に限って誰も皆忙しくて、私はひとりで自分の問題を抱え込まなければならなくなる。だが、職場や私生活で私のために奔走して下さっている方々が確実にいる。そう考えれば孤独を感じるなど罰当たりというものなのに。
『クオリアと人工意識』を読み進める。茂木健一郎に関してはメディアで派手に活躍している論者というくらいのイメージしかなくどんな人か知らなかったのだけれど、この本は相当に勉強された様子が伝わってくる侮れない本だと思った。人工知能や人工意識について論じ、そこから「私が私であること」や「私と呼ばれる現象とは何か」といった哲学的な問題にまで切り込んでくる。私自身がこれまでウィトゲンシュタインや永井均を読んで考えてきたこととつながりうることが書かれていると思い、茂木健一郎の本をもっと読もうと思わされた。
孤独……まあ、たかだか「駄弁りたい時に限って話し相手がいない」というようなもので、自分で何とかしろ、で終わる話だ。中島義道は孤独と向き合うこと、ごまかさずに見つめることを薦めている。その言葉に倣って、私ももっと本を読み考察を徹底するべきなのかもしれない。いずれ死んでしまうのが人間の宿命……とわかっていても、明日世界が終わるとしても、私はやはり同じように朝起きてイオンに行き、本を読むだろう。仕事をこなし、ご飯を食べ考える。それが私の生き方だ。こんな自分自身の生き方を私は47年間にわたって築き上げてきたのだった……。