跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/20 BGM: Primal Scream - Don't Fight It, Feel It

今日は遅番だった。朝、図書館に行き茂木健一郎『生命と偶有性』を借りる。読んでみたのだけれど、実に面白い本だと思った。私はこの私としてここに居る。これは疑いようのない事実だ。だが、私はもしかしたら他のようにありえたかもしれないと考えてみる。もし私が東京に生まれていたら。あるいはもし、私が早稲田に行っていなかったら。そんな「もし」の視点から見つめてみると、私がこのようにしてあるのはむしろさまざまな偶然が重なって起こったように思われてくる。それを茂木は「偶有性」と呼んでいる。面白い視点だと思った。私は他のどんなようにもありえたのかもしれない……。

そのようにして人生を振り返ると、私の人生を決定づけた出来事がいくつか重なっていることにも気づく。そして、そうした出来事に翻弄されて私は人生を生きてきたということになる。クラスメイトが読んでいた村上春樹を読ませてもらったことから村上春樹の文学と出会い、兄が薦めたから早稲田大学に行き、その後半年ほどニートの時期を経て医師が社会復帰を薦めたから今の会社で働くようになった……これらの出来事がもし1つでも違っていたら、その違いは私の人生を大きく変えただろう。そう思えば人生まさに何が幸いするかわからない。あるいは災いとして働くかわからないものだ……。

最近流行っている「親ガチャ」といった言葉もそうした「偶有性」の観点から説明できるだろう。なぜあの親は私を生んだのか。私はなぜ別の親から生まれることができなかったのか……もちろん子どもが身勝手なことを言っていると一蹴することもできるのだが、私自身自分の親がこんなど田舎に住んでいることも理解できなかったし、私のような発達障害者を生んだということについても責めたい気持ちを持っていた頃もあったのでわかる気がする。そうした「偶有性」を受け容れられず苦しんだ時期があったということになる。だが、そうして「偶有性」が働く不確かな世界こそこの世界の有り様なのであれば、私はその中に飛び込んでサバイブしていかなければならない。

茂木は、私が自分の主観に忠実になることが大いなる客観に届くと記している。例えば何かの本を読み、私が感銘を受けたとする。その感動は私個人の中で完結するものだ(茂木の視点から言えば、私は何らかの「クオリア」を感じているということになる)。だが、その感動を自分の中で掘り下げてそれを言語化し他人に伝えると、私個人の深い感動にすぎなかったものが他人に伝わる。そうすると、それは普遍的価値を持つものとして広がりうる。私がこうした日記を書いていることも、単なる個人的な生活の垂れ流しというか戯れ言の書き殴りではあるのだがそれが同時に他人に届いている。それ自体が実は奇跡である、という視点をこの本から学んだと思った。