跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/05 BGM: Deacon Blue - Dignity

今日は休み。朝、友だちが興味深いメッセージを教えてくれた。岡田有希子のメモリアル・デーが近づいているが、坂本龍一の「Ballet Mechanique」はもともとその岡田有希子のために作られた曲だったというのだ。歌詞は「ぼくには はじめと おわりが あるんだ」「おんがく いつまでもつづく おんがく」というもので、これは人間の人生は有限のものであるが音楽は永続的に鳴り続けるものだということが意味されているという。そう考えるとこの歌詞は深いメッセージを含んでいるとも受け取れる。坂本龍一のメッセージは今となっては知りようがないが、私に引きつけて考えれば私の人生もいずれ終わる。その生の有限性を見据えたところから無限のものを生み出せるかもしれない、という可能性に開かれる……プリファブ・スプラウトの「Carnival 2000」という曲を思い浮かべてしまった。彼らはこう歌っている。「Lives come and go but life no denial」。「人生は来て去っていく。だけど命そのものは否定できない」……。

朝、まだ空は曇っていた。イオンに行き、そこで沢木耕太郎沢木耕太郎セッションズ 陶酔と覚醒』を読む。ふと、本の中で語られている「生まれ変わりを信じるか」という話題が気になった。難しく言えばニーチェが「永遠回帰」と呼んだテーマにも連なる。私は生まれ変わるということがピンと来ない。もし生まれ変わることを信じるとしたら、それは今の人生を否定することにもつながるのではないだろうかとも思う。今の人生に満足せず、他の人生があり得たはずだと信じて生きる、という生き方……そのような生き方こそが恐らくは他人の人生を演じたい、他人の人生をヴァーチャルに生きてみたいという気持ちにつながるのだろうと思う。フィクションを生み出すのは前者の態度だろうし、ノンフィクションは後者の態度から生まれるのだろう。私はさしあたって今は今の人生を生きたいからどっちつかずのまま、その「今の人生」を日記として綴っているのだろうなと思った。もし生まれ変わるとしたら……井上陽水が「人生が二度あれば」と歌っているが、もし現に何度も生まれ変わらないといけないとしたらそれは非常にハードな人生だろうなと思う。疲れるだろうな、と。

昼になり雨が降り始めたので、グループホームで過ごす。ディーコン・ブルー『Raintown』を聴きながら沢木耕太郎『246』を読む。これは沢木耕太郎が記した日記で、読んでいて実に地味な「いぶし銀」の人生を歩んでいるなと思う。数々の著名人が登場するがそんなに日常が華やかなものとしては描かれておらず、沢木は「凡事徹底」として平凡に本を読み、映画を観てそして書く作業を続けている。羽目を外して相好を崩すことなく自分の文体/スタイルを守り抜いている。そこから来る安定感によって心地よく読める。沢木耕太郎を読むようになったのは実を言うとつい最近のことなのだけれど、自分自身の生き方として沢木耕太郎が貫く生き方を指針にできないものかと考える。もちろん私はプロのライターではないしそれ以外にも沢木と自分の間には見過ごせない相違がいくつも存在する。そんな相違を無視して勝手に同一視するのは端的にはしたないことでもあるだろう。私は私の道を行かなければならない。

夜、断酒会に行く。雨が降っているのでリモート参加で出席する。参加者の方で5年断酒を続けられた方がおられたので表彰される。私自身もかれこれ8年断酒したことになるだろうか。8年前の4月3日、あの日私は断酒を決意して今に至る。長い道のりだった……これからも続くのだけれど。その後沢木耕太郎『彼らの流儀』を読み進める。その中で、リスナー参加型のラジオ番組について語られた文が目を惹く。今でもあると思うのだけれど、悩みを抱えたリスナーと番組のパーソナリティがガチンコで対話するという番組だ。思えばTwitterも私のやっているようなブログも、そうした言葉にならない悩みごとや心配ごとを抱えた人にとっては「吐き出す」場として機能する。ならば私はこのブログを通して癒やされていると思う。そして、過去にそうした番組を聞いて私自身が励まされたようにこうした文章を通して励ましを受け取る方も確実におらえるのだと思う。他愛のないことしか書けないけれど、それでもこのエントリも誰かのいる孤独な場所に届けばいいと思った。