雨だった。朝、ブラーの『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』を聴きながら『沢木耕太郎セッションズ 星をつなぐために』を読み進める。ブラーは私が大学生の頃からずっと好きで聴いてきたグループだ。ふと、今の40代や50代の人々はどんなことを考えて生きているのだろうと思う。私自身は学生時代の延長上のような気ままで呑気な生活をエンジョイしているのだけれど……そうした自分と同世代の人々に何かアピールできるようなことを書かないといけないのだろうか、と考える。ただそれが嵩じて論客になってしまうことには抵抗がある。私は結局、ブレイディみかこ言うところの「地べた」からの景色を書きたいと思っている。誰を気取ることもなく、自分自身が目で見たことや肌で感じたことを書きたい、と。それはつまり、自分自身が誰かを代表することで目立ったり名を売ったりすることを避けたいと思っているのだろうかと思う。
今年で48歳になるのだけれど、自分のこれまでの人生を振り返ってみていかに自分がでたらめに生きてきたかを思い知る。無軌道というか無謀というか……といって確たるポリシーがあったわけでもなく、酒に溺れつつもその時その時ノリに従って道を選んできたらいつの間にかここにたどり着いてきたとしか言えない。村上春樹や宮台真司、沢木耕太郎を読んだりして……そうした読書はただ暇つぶしというか退屈しのぎだったのだけれど、そんな風にランダムに読んできた読書が今、私の中で星座としてつながるのを感じる。いや、人生経験にしたって自分の中でさまざまなことが星座としてつながる。断酒、哲学の独学、英語学習、発達障害……自分の中ではウィトゲンシュタインを読むことと英語を学ぶこと、発達障害について考えることはつながる。そうして星座を編むことができるようになってきたのは、40代をとうに過ぎ去ってしまった自分だからこそできることなのかもしれないとも思う。そうであれば生きていてよかったとも言える。
沢木耕太郎が一段落するとデヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+』を読み進める。この本の中でチャーマーズは「リアリティとは何か」を問うている。これは実に根源的な問いであり、ゆえに答えるのが難しい。今はバーチャル・リアリティが発達している時代であり、つまりはリアリティに匹敵する「もう1つのリアリティ」ができあがりつつある時代でもある。そんな中にあってはただ単に「リアリティこそが人間が生きるべき世界だ」と主張することはそれこそ現実的ではないだろう。読み進めながら、私はそうしてまさにテクノロジーによって私たちの価値観が塗り替えられる時代を生きているのを感じる。ならばそうして刷新される価値観はどう変化していくのかを知りたいと思った。私は仕事をして、本を読み、眠る。そうした活動がこのリアルを支えている。そしてこのリアルは日々、ドラスティックに変化している……。
ロシアから私の日記を読んで下さっている女性と、FacebookやWhatsAppでやり取りをする。私のブログについて、公に発表しているブログなのだからもっと読者の興味関心を惹くことを書くようにというのが彼女の意見だ。最初は「いや、趣味でやっていることだし誰に気兼ねすることもなく好き勝手に書きたいので……」とかわしていたのだけれど、彼女の熱意に(なにしろ毎日コメントを下さるのだから)私も考え直すべきかもしれないと考え始める。もう10歳若かったら多分「放っておいてほしい」と喧嘩になっていたかもしれないが、今は「これも新しいチャレンジの機会なのかもしれないな」とも思い始めるようになった。だが、いったいどんな内容が読者の興味を惹くというのか、皆目見当がつかない。もし皆さんの中で「こんな内容に興味がある」という意見があれば、寄せていただけるとありがたく思う。とはいえ必ず応えられるという保証はできないのが情けないのだけれど……。