跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/01 BGM: Bonnie Pink - Lie Lie Lie

今週のお題「お花見」

体温は36.2℃。今日は休みだった。万愚節、つまりはエイプリル・フールということで何か冗談として嘘をつきたかったのだけれど、何ひとついいものを思いつかない。「ブログ書籍化決定」なんてものも白けるだけだし……と思い無理はしないことにする。図書館に行き、デイヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+』を借りて読み始める。この本の中でチャーマーズは仮想現実について議論を始めている。この世界は想像上のものに過ぎないのだろうか? 実に刺激的な問いだ。この世界はフェイクなのだろうか……私はそうは思いたくない。だが、仮想現実が現実でないことを否定するにせよ、ソーシャルメディアが織りなすネットワークやメタバースのような仮想現実が私の生活を支えていることは間違いない。ゆえにこの本が提示する疑問を単に愚問として切り捨てることはできない。興味深く読み進めた。この世界はシミュレーション上のものなのだろうか、私たちの生活をメタレベルから眺めている誰かがいるのだろうか。これらは永井均の思考にも通じる問いであり、『翔太と猫のインサイトの夏休み』を再読したくなる。

その後夢公園に行き、桜を鑑賞する。考えてみれば今年は桜をゆっくり見るゆとりを持たなかったので、せっかくの機会だからと思いぼんやり眺める。先ほどのチャーマーズの問いに対する答えにはならないかもしれないけれど、この桜が実にリアルなものとして迫ってきて「このような美しい現実を見つめる自分自身こそは(デカルトが言ったように)否定できないな」と思う。私は恐らくソーシャルメディアに縛られ過ぎなのかもしれない。凡庸な言い回しになるが、もっとこうした広大で美しい現実を眺めるゆとりを持たなければならない、と思う。それはつまりデペッシュ・モードが言うように「Enjoy The Silence」の境地に至ることではないかと思う。音楽に耳を傾けたり本を読んだりして暇を潰すのではなく、現実世界においてどのようなイベントが展開されているかをこそ眺めないといけないのかもしれない。ただ、私の脳というのは頑迷にできていてどうしてもこうした桜を見ると「ブライアン・イーノが似合いそうだな」と頭の中で音楽を再生してしまう。

昼になり、昼寝をした後沢木耕太郎『ポーカー・フェース』を読む。この本のエッセイたちを通して、沢木耕太郎は「嘘」に興味を持っているのではないかと思った。「嘘」、つまり何かを「捏造」したり何かに「なりすます」こと、あるいは「虚言」を並べることや事実を作り変えること……沢木耕太郎は初期のエッセイで自分自身の中にある「嘘」をつくことへの誘惑を誠実に語っているが、ノンフィクション作家として不動の地位を固めた彼はそんな誘惑に屈したりせず真実を書き通してきた。だが、彼の中にはまだ甘美な「嘘」への誘惑があり、しかしその「嘘」がもたらしうる代償も理解している。私自身はどうだろうか。私は本当に嘘をつくのがヘタクソなので(もちろんあらゆる「嘘」と無縁に生きているなんてことは言わないにしろ)、そうした「嘘」の誘惑は相対的に薄いとは思うけれどもしかしたら誰かを「騙す」ことは(「嘘」は自分自身のみならず常に「誰か」を騙すためにあるので)快楽でありうるのかもしれない。

その後夜になり、時間が空いたので『沢木耕太郎セッションズ 達人、かく語りき』を読む。さまざまな世界における「達人」たちとの闊達な会話を楽しむ。どの世界においても「達人」たち、ひとつの世界において昇り詰めた人たちの言葉というのは勉強になる。羽生善治イチローと同じく「ムダに見えること」の功徳について語っているのが印象的で、沢木とイチローの対談というのがあれば読んでみたいと思った。その後ふと、『ポーカー・フェース』において語られていた「舌禍」「口は災いのもと」という話題について考える。私自身も不用心に語ってしまった言葉で場の和やかなムードをぶち壊しにしたこともあるし、ネット上で炎上したことだってある。特にこんなデジタルな時代においては言葉の使い方をひとつ間違えただけで解釈の仕方の相違から問題になることだって充分にありうる。このブログだって炎上しないとも限らない。私は炎上を楽しむ肚は持ち合わせていない。ただ淡々と更新できればそれでいいと思っている。