跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/28 BGM: Michael Jackson - Black or White

図書館のサイトで沢木耕太郎のエッセイ集を予約する。沢木耕太郎のノンフィクションは実はそんなに読んだことがないのだけど、彼が身の回りのことを軽くスケッチしたエッセイ集は好きでよく読む(彼の端正な文章は日本語を学ぶ方にも勉強になるのではないか、と素人考えで思ってしまう)。今日もカバンの中に彼の『路上の視野』を入れて会社に持っていき、そこで少し読み確実に心が癒えるのを感じた。すでに何度か読んだことがあるので安心感を抱ける。こうして「既読」の本にばかり関心が行くのも、未知の本に挑んでハズレを引きたくないからかもしれない。自分の心を傷つけ、そして価値観を変えてしまうような(いわば「物議を醸す/controversial」な)本を無意識のうちに嫌ってしまっているのかもしれない。守りに入ったということか、と思う。これは一念発起して何か過激な、サミュエル・ベケットみたいな書き手の本を読むべきなのかもしれない。

昨日は夜はよく眠れず、朝「今日こそダメじゃないか」と思ってしまった。それでずいぶん苦しんだのだけれど、結局仕事に入ってしまった。「ここで倒れるわけにはいかない」と思って……前にも書いたことで(喩えがどうしても古くなるが)、私の中には『シティーハンター』の冴羽獠的な人格があるようだ。その人格はそれこそ冴羽獠がそうであるように普段はくだらないことを考えて生きている。毎日寝て暮らしたいとか汗をかきたくないとか、あるいはエッチなことも山ほど……でも仕事に入るとキリッと気持ちが変わり、仕事をこなすことができるようになる。この人格の変わりようをついに信頼できないからいつも仕事前に落ち込むのだった。仕事に入らないと仕事ができるかどうかわからない。あるいはそうした自分の中の冴羽獠を信じることができない。難儀な話だ。そんなに真面目な人間ではないつもりだが、私にも一応は「プロ根性」があるのかもしれない。

昼休み、沢木耕太郎『路上の視野』を少し読む。沢木耕太郎の文章から、彼の清潔な「プロ根性」を感じる。彼は日本屈指のノンフィクション作家だが、そのライターとしての矜持を伝える初期のエッセイを読み「かなわないな」と思う。眼前に展開する現実と虚心に向き合い、それを書くという作業を彼はずっと続けてきた。そうした作業に徹してきた人間が書ける凄味があると思った。私も見習うべきなのかもしれない。「プロ根性」……私は自分が「プロ」だとは思ったことがない。屁理屈だが、何かの「プロ」になってしまうとそのレッテルに縛られてしまい身動きが取れなくなるのではないかと思うのだ。あらゆることに「アマチュア」でありたいと思うのだけれど、でも1つの仕事を20年以上続けてしまうと自動的に人は「プロ」になってしまうのかもしれない。私はそうした不自由を享受しなければならないのかもしれない。

「ギフテッド」というレッテルについて考えている。厳密な定義を知らないのだけれど、聞いた話では「平均より著しく高い知的能力を指す用語」(Wikipediaより)だという。私も自分の言語能力が「ギフテッド」ではないかと思っていた時期があった。だが、Discordで私の日記へのコメントとして、この「ギフテッド」というレッテルが単純に「優れた人」を指し示すものとしてではなくその人の「生きづらさ」を指し示す指標になりえるのではないかという意見を提示されて私も考え直した。それはその通りだと思う。「ギフテッド」だから「生きやすい」、あるいは「生きやすいはずだ」と考えるのではなく「ギフテッド」だからこその「生きづらさ」にどう共感するか。それに思いがなかなか至らないのが私の想像力や思考能力のなまくらなところかな、と反省した。「普通」「定型発達」というラベルにしても、「定型発達」だからこその「生きづらさ」に思いを馳せるべきではないかとも考えている。