跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/02/28 BGM: Wes Montgomery - Days Of Wine And Roses

今日は休みだった。朝、いつものようにイオンに行きウェス・モンゴメリーを聴きながら片岡義男『珈琲が呼ぶ』を読む。ふと、私らしくもなく「いったい自分は何をやっているんだろう」と思う。いや、読書は結局のところ好きでやっていることだけれど自分はそうした趣味にかまけて生きて、家族も築かず子どもも育てず実にちゃらんぽらんに生きているなと自分に呆れたのだった。でも、そんなことを言い出せば「生産的」に生きていない人、もっと言えば働いたりして社会に貢献していないと見なされてしまう人の居場所がなくなる。私自身、過去にニートだった時期に働いていなかったことをプレッシャーに感じてああでもないこうでもないと行き詰まってしまったことを思い出す。社会に貢献していない(とされる)生き方、「まわり道」の生き方を選ぶ自由があってもいいと私は思う。というか、そう思いたい。

大学生の頃、ちょうど今のような春めいて暖かくなってきた時期、私はひどい鬱に悩まされたことを思い出す。さしあたって就活にはまだ早すぎて、バイトをしようと思うも手頃なものを見つけることもできず結局(恥ずかしながら)両親の仕送りに頼って朝から晩までぶらぶらする生活をしていた頃、いったい何をしていいのかわからない「暇と退屈」を持て余したことを思い出す。今にして思えばどうせならそんな暇な時間は旅行するか釣りに行くか、じっくり腰を据えてプルースト失われた時を求めて』でも読めばよかったと思うのだけれどともあれ深刻に「いったい俺は何をやっているんだろう」と危機を感じて鬱に陥ったのだった。何はともあれ大学には入った。でも、そこから先は受験とはまったく違った戦略で生き延びなければならず、どうしていいかわからない。実に苦しかった。

折しも時代はオウム真理教事件に揺れ、私の中にも「いったい自分はどう生きたらいいのか」「より良い生き方とは何だろうか」という迷いが芽生えていた。今はその問いにも自分なりの答えを見出すことができたのだけれど、ともあれ人生は長いものなので時には人は自分が何をしているか、もしくは自分が何をしたいか迷うこともあるとも思う。おかしな言い方をするが、私自身過去にさんざん迷った経験を持っている。読書はそんな時期、自分を測るために必要な営為だったと思う。過去、アパートの一室でポール・オースター『ムーン・パレス』を読み耽り数奇な主人公の運命に感情移入したことを思い出す。そんなことを考え、実に「迷える子羊」を鮮烈に描いた夏目漱石の珠玉の小説群をまた読み返したくなってきた。海外の作家なら例えばチャールズ・ブコウスキーをまた読むのもいいのかな、と。

夜、英会話教室に行く。そこで今日は先生方がスキーに行って負傷したという話題から「アメリカと日本の医療制度の違い」を話し合う。これは実に難物だった。私はアメリカの医療を知らず、例えば「オバマケア」についても無知を晒すことになった。言い訳すれば、オバマ政権の時代私は実に心を閉ざして呑んだくれていたので当時の記憶がないのである。東日本大震災の記憶すらない。そんな有り様だったが、「アメリカは資本主義がベースにあるから富める人向けに医療が発達してきているのではないか」「弱肉強食をよしとする『ネオリベ』の影響ではないか」「日本はその点、『一億総中流』とも言われたくらい社会主義的な性格が根強いから(ここまで来ると自分でもわけがわかっていない)」とか高田純次ばりに超テキトーなコメントをかまして終わってしまった。