跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/09/22

あまり調子が良くない。多分単に季節が変わりつつあるからだと思うのだけれど……今日は早番だったので仕事をして、それで疲れてしまったので結局夜のミーティングも半分眠ってしまって(ごめんなさい)、読書も執筆もできなかった。時間が余れば『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を観るつもりだったのだけれど、結局早々に眠ってしまったのでそれもできなかった。何だか恥ずかしい。アイザック・バシェヴィス・シンガーの格言「人生は神の小説である。神に書かせなさい」を思い出す。自分でどうにもならない時、状況に身を任せるのもいいのかもしれない。

昔、Twitterにずっと入り浸っていた頃私はずっと他人にケチをつけて生きていたと思う。いっぱしの口を叩いて政治に物申して、他の人の作品をディスっていた。思うに、私はその頃状況を批判することで自分自身の精神の安定を保っていたのだと思う。別の言い方をすれば自分自身を変えようとせず、自分自身の抱えた問題を見ようともせずに物事を批判し続けていた。だからどんなに批判しても、私の人生がよくなることはありえない。今Twitter国葬を批判している人たちを見るにつけ、そんなことを思い出す。私は国葬に関しては何とも意見を述べられないのだけれど。

いじめに遭って、ずっと下級生からも罵倒される人生を歩んできたせいか私は今でも幻聴めいたものを聞くことがある。「帰れ」「死ね」といった言葉だ。もちろん、今は友だちがいる。そしてその人たちからは暖かい言葉をもらっている。私自身、そんな幻聴を克服したいとも思う。だが、私が生きている限りこの幻聴は続くのだろうとも思う。それはそれで仕方がないのかもしれない。私は、自分がいじめられっ子だったことを忘れない。そしてそのいじめが私にとって大事なレッスンであり、自分を作り上げたことを認めて生きていきたいとも思う。

あまりこんなことを書くのもはしたないとも思うのだけれど……過去に、死ぬことが自分にとって唯一のこの人生からの出口だと思っていたことがあった。酒を呑むのもそんな風に自分の人生から逃げたかったからだ。その意味では飲酒もTwitterで管を巻くのも変わらない。他人を叩いている間は自分から逃げられる。ならば今はどうか。今、私は自分の発達障害と向き合い、仕事においてもっと有意義なことができないかと考えている。この生き方がパーフェクトだとは思わないにしろ、自分の生き方として何を恥じることもないと思えるようになった……のだけれど、これでもまだ見通しが甘いだろうか。