跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/09/27

図書館に行き、村上春樹アンダーグラウンド』を借りてきた。大学生の頃にこの本を読み耽ったことを思い出す。オウム真理教が起こした事件に触れて、私ももしかしたらオウム真理教みたいな組織に入信して救済のために、つまり「善意で」サリンを撒いたかもしれない。そう考えるとオウム真理教の事件は決して他人事ではないとも思う。「善意で」凶行を為す、ということであれば今だっておかしなことを行う人はいる。私だって同じ穴のムジナである。自分の中の倫理観を見失って愚かしいことをしないという保証はない。気をつけなければ。

今日は安倍元総理の国葬が行われた日だった。私はTwitterを見るのが怖かった(ので、見なかった)。私がTwitterを使う時に偏ったツイートばかり読んでいるからだと思うのだが、血なまぐさいというかキナ臭いツイートが目につく。私は多分に「反安倍」の立場に立っているが、しかし安倍元総理が無念の死を遂げたことは疑いえない。彼の死を悼みたい、という心理もある。むろんその手段が「国葬」であっていいかという問いは成り立ちうるだろう。「国葬」より先にやることがあるだろうとも思わなくもない。そこで私の思考はフリーズしてしまう。

アンダーグラウンド』や『約束された場所で』を読み、村上春樹の小説を読んでいる。村上春樹を読むことは、私という決して世の中にすんなり馴染めない(ある意味「反社会的」とも言える)人間がそれでも社会の中で生きるため、難しく言えば「還俗」するためのレッスンなのかもしれない。どうやって肥大した自己愛や理想を捨てて今の自分と折り合いをつけて、決して特別でもなければ才能に満ち溢れているわけでもない自分を受け容れて、凡人として生きるか(ウィトゲンシュタインが喝破したように、「ただ在る」ということ自体が十分に神秘的なことだ)。

夜、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』第3話を観る。自閉症スペクトラム障害について本腰を入れてアプローチした内容となっていて、私自身そうした障害/特性を抱える者として考えさせられた。学問的なことは私にはわからないが、自閉症スペクトラム障害は「本来誰もが持ち合わせている特徴が、社会生活に支障を来すに至るまで顕在化している」という障害である。別の言い方をすれば社会の許容度が異なればそうした障害の現れ方もまた違ってくる。社会が柔軟さを以てそうした障害と接することができるならまた自閉症スペクトラム障害の人も生きやすくなる、というものなのだと思う。いや、口で言うだけなら簡単なことで実践が大事なのだけれど。