今日は遅番だった。朝、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を観る。その後イオンに行き、村上春樹『ノルウェイの森』を読み始める。思い起こせば高校生の頃に私はこの小説と出会い、それ以来ずっと折に触れて読んできたのだった。だからこの本を読むと私は忘れていた十代の頃の心理が蘇る。若かりし頃……それにしてもなぜ私たちはそんな十代の頃の思い出を懐かしむのだろうか? なぜそんな思い出を感傷的に振り返ったりするのだろうか? 私は十代の頃の思い出にロクなものがないので忘れてしまうように努めていた時期もあったのだけれど……。
『ノルウェイの森』は私的な思い出を開陳/告白する、という形式を採っている。日本にはそうした「告白小説」とでも呼ぶべき形態の小説が存在する。「私小説」と呼ばれるものだ。とてもデリケートで、英語で言えば「touchy」な小説だ。固い貝の殻をこじ開けるように、丁寧な筆致でネガティブで内省的な思い出/ノスタルジアを語ろうと試みているのがわかる。そうした語り口に惹かれ、高校時代の私はこの本を読み耽ったのだった。もっと青春に相応しい明るい小説は数多とあったと思うのだが、恐らく高校時代の私はすでに人生に絶望していたのかもしれない。
たまたまこの『ノルウェイの森』を読んでいた際、私がいたフードコートで前に女子高生がたむろしていた。彼女たちの威風堂々とした姿を見て、私もそんな十代があったのだなと思った。いじめに遭ったりして結局重度の人間不信に陥って、本と音楽しか信じられるものがないとまで思って……『ノルウェイの森』では登場人物がその奇矯な喋り方を指摘されて、彼らと周囲のそうした「違い」に自覚的にならざるをえない瞬間が綴られる。私もまた「変」な人間であったこと、どうしても「普通」になれなかったことを自覚しないといけない日々があった、ということを思い出す。
今日、いよいよ満を持してジョブコーチ支援の面談を行った。職場で困っていること、悩んでいることを率直に話す。そして休憩時間、仕事で脳を使いすぎたせいで『ノルウェイの森』の続きも読めないままにぼんやりする。ああ、初めて発達障害を考えるミーティングの結成に立ち会い、そして6年が経っただろうか。その6年間は私にとって、発達障害/自閉症スペクトラム障害を受け入れる過程であり、その障害と一緒に自分が成長する日々の謂でもあった。幸せな日々だったと思う。だが、本当に幸せな日々はむしろこれから訪れる。私を取り巻く環境はむしろ、これから大きく動き始める……。