跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/30

BGM: SAKEROCK "スーダラ節"

三木那由他『言葉の展望台』を読む。永井玲衣の本と同じく、深遠な哲学を暮らしの中に持ち込んで「使う」試みをしているのではないかと思った。彼女がこだわるのはコミュニケーションについてだが、私も自分がこうして書いている言葉がどうして伝わるのか、未だに100%自信を持てないでいる。誤読や誤解の可能性、ゆえの諍いの可能性を孕みつつ言葉は流通し、世界は回っている。そう考えていくと私たちの暮らしは実に奇蹟的なシステムで成り立っているのではないかと考えられる。ワクワクさえしてくる。彼女の本はそうした、私たちが暮らしの中でふと味わうそんなワクワクする気持ちについて書かれているのではないかとも思った。妄想がすぎるだろうか。

そうして哲学について私も曲がりなりに日常の生活から考える。そうすると、気づくのは「そもそも昔から私はコミュニケーションで悩んできたな」ということだ。言葉がなぜ通じるのかわからない、という恐怖と驚異。かつての東浩紀なら「誤配」と呼んだかもしれない事態さえ起こるのだけれどもそれでも何とかコミュニケーションが成り立ち、世界は回る。でも私はそんなコミュニケーションの成立を信じられず、現に私だけスットコドッコイなことを言ってしまったりしてしまうせいでいじめられる。そんなことがあって、私はこんな風に考え込むクセがついたのかなと思う。ダメだ、うまく言えない(私なりにもっとこのことは考える必要がある)。

夜、小林紀晴『父の感触』を読む。9.11同時多発テロ小林紀晴自身の父の死という2つのストーリーが並行して展開する作品で、そのセンシティブな筆致と彼が愚直に内面を見つめる素振りに惹かれる。外部の人間はテロや父の死について、小林の思いと時に噛み合わないことを話す。だが、小林は自身の内から感じられる倫理に従って動く。それは時に「損」かもしれない。だが、彼の真面目さから来るそうしたストレートな態度に私もつい共感し、読み耽ってしまった。そして、私も自分の人生とは何だろうと考えさせられた。少し尻すぼみ気味で終わるのが気になったが、面白い作品を読み終えた手応えを感じた。

坂本龍一の音楽をここ最近聴き返している。Spotifyで彼のピアノ演奏を集めたプレイリストを利用して、「energy flow」や「戦場のメリークリスマス」を聴いているのだった。昔は「クサい」と思って敬遠していたのだけれど、今になって人生の挫折を曲がりなりにも体験した状況で聞くとその「クサい」感じが旨味に思える。上述した小林紀晴の本も坂本龍一の音楽を聴きながら読んだ。しみじみと自分自身の「人生のかたち」を思う。ぜんぜんカッコいい人生ではない。だが、私にとっては大事な自分の人生だ。ああ、これからどんな人生が待っているのだろう?