今日は通院日だった。グループホームのスタッフの方とふたりで先生のところに行く。そこで私が抱えている多飲症の話をして血液を検査してもらう。自分の中でこの多飲症という障害を障害として認めるのにずいぶん時間が掛かったが、信頼できる知人に話したところ先生にも伝えておいた方がいいと言われたので勇気を出して先生に切り出したのだった。スタッフの方からも「ちゃんと言えてた」と言われたのがありがたいと思った。次の診断は、来月下旬はワクチン接種でなにかと忙しいので5週間後ということになった。スタッフの方とはそこで別れた。
その後イオンに行き昼食を買い、片岡義男『珈琲が呼ぶ』を読む。いつの頃からだろう、片岡義男の書いたものを熱心に読むようになった。単なる三文小説の書き手とナメていたのだが、『日本語の外へ』の力強い思索に唸らされたのがきっかけで彼の書くものを読むようになった。『珈琲が呼ぶ』も、日本の漫画や海外の映画、そして音楽に造形の深い彼の美学(恐ろしいほどフレッシュだ)が塊となって結実していると思う。2度目の読書になるが、飽きずに読むことができた。今度は彼の小説を読むべきかなと思い始める。さて、どの本を読むべきだろう?
午後、昼寝をした後途中で投げ出していた十河進『映画がなければ生きていけない 2010-2012』の続きを読み始めた。実を言うとこれも2周目の読書をしているわけだが、プロであることの矜持について考えさせられる。clubhouseでも私の仕事の話をすると「そんなに続けているんだったらプロだね」と言われたりするのだが、未だに「自分はこの仕事向きじゃないな」と思う私にプロ意識なんてあるわけがない。だが、与えられた状況をありがたいと思い、手を抜かずかつ十河進が語るように甘えずに自分の牙を自分で研ぐ姿勢は忘れたくないなと思っているのだった。
夜、阿久津隆『読書の日記』を読み始める。これも2周目。まっさらな気持ちで読める本に出会えていない。『読書の日記』に触れて、例えば白水社のエクス・リブリスという海外の文学のレーベルを読むのはどうかなと思い始める。あるいはフォークナーやヘミングウェイを読むのもいいだろう。保守的になるにはまだ早い。阿久津隆の読書日記に触れて、彼が柔軟に文学を読みこなしそこから自分の思索を編み出していることに感銘を(改めて)受けて、私も見習わないとと思った。と同時に、私のこの日記はなんだかつまらないのかもしれないと思い始めもしたのだった。いや、他人から読むとどう映るのか全然わからないのだけれど……。