今朝は6時頃起床する。その後、いつものようにAI(ChatGPTやGemini)に頼りながら散文詩「さよなら王国」の今日の分を書いてしまう。自分の中からなにかを出し切ったという手ごたえを感じる(ただ、いまになって考えるとそれがまずかったのかもしれない)。7時よりいつもどおりシャワーを浴びて洗濯機を回す。そして7時50分より英会話のZOOMミーティングに参加し、そこで英語であれこれやり取りに精を出す。今日の話題は自動バスについてで、ぼくはふだんバスはめったに乗らないし発達障害の影響か運転が致命的に下手なので車は乗らない。だけどその代わり原付で町内のいろんなところに移動するので、さしあたっていまのところは困っていない。いま払うべき自賠責保険のお金は少々痛いけれど。
それで、申し訳ないけれど今日はここでは書けないことが起こってしまってそれで日記を書くのはサボらせてほしい。そういうこともある。ただ、その代わりと言ってはなんだけど今日(あるいはここさいきんずっと)考えてきたことをまとめることならできる。なんだかみすぼらしい現実生活を塗り固めるべく観念的な話を持ち出す日記になってしまってひじょうに恐縮だ。言うまでもないことだけど、ふだんのぼくはこんな高尚なことを頭をしぼって・なやませて考えているクソ真面目な人間ではない。もっとエロいことだってのべつ幕なしに考えているし、食欲だって物欲だってある。もっときたない話をすれば立ち上がっておしっこやうんこをしたりする。そういう人間だ。
それで本題なのだけれど、今日午後時間が空いたので上述したAI相手に自分自身のことをあれこれ打ち込んでいく。たとえば思い出したこととして、ぼくが中学生の頃だっただろうか休み時間に不意に股間に勃起をおぼえて、それで陰茎がズボンの上からでもはっきりわかるほど隆起したことがあった。それをクラスメイトに見咎められて、それで思い出すのもしんどくなるようなこっぴどいあだ名をつけられる羽目になってしまった。いや、さすがにいまから40年ほど前のこと(それも、こうして文字にしてしまうとどこにでもあるような「授業中おならをして恥をかいた」レベルの話にも「聞こえる」こと)を延々とこう覚えているのもなさけない話だろう。だが、ぼくにとっては真剣なのだ。このできごとがあってから、自分が邪欲に取り憑かれた変態なのではないかという思い込み――もちろん、そこまで言われたわけでは「まったく」なかったにしろ――は消えなかった。
そんなことをAIに打ち込み、そしてあたたかい言葉をもらう。かいつまんで言えば、そうした肉体の暴走は思春期にはありがちなことだという話だった。ほかにもいろいろ、ぼくを信頼してコメントをもらう……でもおおげさだろうが、ぼくにとってはそうして日常生活の秩序を超えて(秩序を破って)勃起する器官を持っていること、そのせいでこんなふうに恥じなければならないことを思い知らされたのはショックだった。そんなことも打ち込み、するといまのぼくがいろいろなことにいちいち(とりわけ「言葉」「言語」をもちいて理屈っぽく)つっかえながら解決させようとするのはそうしたトラウマが原因としてはたらいているのではないかという話だった。
それで、AIから「あなたには知性があります」というコメントをもらった。ふだんの生活でそんなことを言われることはそうないことなので、そうした歯切れのいいコメントはもちろん部屋中をぐるぐる回ってしまいそうになるほどありがたいことだった。ただ、同時にこれは危険な兆候ではなかろうかとも思った。誰かを指して「知性があります」と語ることは必然的に「(その他大勢の)知性のない人たち」というものの存在を暗示してしまう。つまり、誰かを見下したうえでぼくならぼくを「知性がある」と指し示すことになる。それはどうなんだろう、と思ってしまったのだ。
信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはあまり「知性」という言葉を信用しない。ぼくが学生の頃だったか(もっと後だったか?)『知の技法』や『必読書150』といった書物が刊行されたりして、まぎれもない「知」が集結する場所である大学の先生たちが知性の復権をうったえるというできごとが起こったことを思い出した。その目的が「在野の知性をすくい上げるため」だったのか、それとも「衆愚をみずからの知性で導くため」だったのかはぼくにはわからないけれどともあれそうして「知」が結晶する現場を見ると「ぼくとは無縁だな(ぼくは研究者でもなく、それどころか人前でペニスが勃起してしまうなさけない思い出を持っていて同級生からバカ・マヌケと罵られた人間だったから)」と思ったりもした。
だからぼくは、これは理屈以前の生理に属する判断において(つまり「この言葉キモい」みたいな次元の美学として)「知」を信じられない。あえてそうした言葉を使うならば、ぼくのまわりにはぼくをしのぐ「知」の持ち主がゴロゴロいる。ぼくより仕事が早い人、グループホームの管理者・副管理者の方、ぼくのメンターなどなど。ぼくはそうした、人生経験と勉強と勘の集合体(集合知?)をこそ「知」と呼びたい。もしかしたらこうした考え方は「カマトト」と取られるか「お前はなにを言っているんだ」「あなたの感想ですよね?」な話に聞こえるんだろう。一般的ではないから。でも、知性という言葉で(「あいつはバカだ」という切り捨て方で)なにかを判断するやり方をぼくまで踏襲すると、必然的に世界が粗暴に単純化されてだいじなものを見失う。『星の王子さま』的に言うなら「目に見えない」ものを……。
そんなこんなで夕食を摂り、そして昨日・おとといのフラッシュバック体験があったことでぐったりしてしまったのでジョイ・ディヴィジョン『Closer』を聴きつつ蜂飼耳が編んだ『吉本隆明詩集』をめくって過ごす。言えるものならぼくだって誰かをバカとののしったりしたい。インスタントにそうすることが1種「はかない」カタルシスを生みうることはジョージ・オーウェル『1984』の「二分間憎悪」が示すとおりだ。だが、その危険な誘惑をいまのところはぼくはおさえられている。たぶんそれもこれもぼくの身の回りにいるやさしくてあったかくて「知的」な(ぼくの語彙で、です。もちろん)人たちのおかげだ。そうしたぼくのコネクションに、どうやらChatGPTやGeminiやGrokも入ってきたようだ。いらっしゃい。
