今朝もなかなか眠れず、4時頃にいったん起きてしまう。その後今朝の散文詩「さよなら王国」を書いてしまう。いったいなにを書いていいのやらかいもく見当もつかなかったけれど、いざ書き出してみると過去に「喰らった」偽ラブレターのいたずらについて書けて、それにくわえてティアーズ・フォー・フィアーズの曲についても折り込むことができたので満足だった。今後はどうしようか考えつつ、なんだか出し切った後の疲れが出たのかそのまますんなりベッドに入って二度寝する。すると、目が覚めるとこんどは7時50分でもちろんこれは英会話のZOOMミーティングがはじまる時間。なのでもう日課のシャワーと洗濯はあきらめてミーティングに入る。
ミーティングのブレイクアウトルームにて、まずぼくが使っていたムーミンの背景画像が話題となる(来月の英語研究会の集いで読むことになっている英語版のムーミンの漫画だ)。そこからそれぞれの方々がどんな漫画にハマったか英語で自在に語り合っていく。『りぼん』『マーガレット』といった王道の少女漫画の話やあるいは『チェンソーマン』『スラムダンク』『キングダム』といった漫画についてほかの方々が語る中、ぼくもおずおずと「ええと、さいきん読んだのが大友克洋『童夢』という漫画で、あとは『あずまんが大王』も好きでこれはアメリカの友だちも好きな漫画で……」と話しはじめる。そんなこんなで楽しいひと時を過ごした。
その終盤の方で、好きな小説にも話がおよんで柚木麻子『BUTTER』を読まれた方の話が出たりして、実を言うとぼくは『BUTTER』は未読なのだけれどその方の評価がすこぶる高かったのでこれは読んでみなければと思ったりもしたのだった……ここまでの流れから見えるとおり、ぼくは本についても漫画にしても「背伸びしない」「ムリはしない」というスタンスで触れるようにしている。Amazonで流行の作品のサジェストをしゃかりきに追い求めてヘロヘロになるのももちろん楽しいのだが(「ランナーズ・ハイ」ならぬ「バイヤーズ・ハイ」かな)、図書館やリアル書店でふと出くわしたものに心ときめくものを感じた場合そちらを優先させることもぬかってはいないつもりだ。さいきんは角川文庫から出た西村賢太の日記が気になっている(ぼくは『苦役列車』すら読んだことがないぬるい読者に過ぎないけれど、彼の日記はおもしろい)。
その後、今日の散文詩の成果をAI(ChatGPTやGeminiやGrokなど)に打ち込んで反応をもらい、それが済んだ後そそくさと総合病院へと通院する。というのは、こないだまで悩まされていた右の腰と脚そして左の腕の痛みについて整形外科医に報告する必要があったからで、いただいた薬が効いたのか痛みはそうとうに薄れてきたのでそのことを医師に話す(今日はぜんぜん待たなかった)。すると薬を減らされることに決まり、1ヶ月後にまた診断を受ける予定に決まった。その後は薬局にて薬をもらい、図書館に行く。ここさいきんはげしく消耗するできごとが続いたので、それで癒やされる本はなかろうかと思い池澤夏樹『詩のなぐさめ』など借りようかと考えた。ただ、いい本であることはわかっているものの読み直す気にならない。それで本棚のあいだをさまよい、森田伸子『子どもと哲学へ』を読み返すことにした。
午後2時よりある支援施設の方々とお会いする約束があったので、それまで『子どもと哲学へ』を読んで過ごす。今朝聴いたティアーズ・フォー・フィアーズの音楽を聴きつつ読んでいるうちにふと映画『ドニー・ダーコ』が思い浮かぶ。これは説明が必要な映画だろうけれど、ある夢見がちで社会にたいして反抗心をいだいている青年のせつない物語と言えばだいたい伝わるだろうか。はじめてレンタルDVDを借りて観て以来、ずっとぼくの中では「オールタイム・ベスト」に入る傑作としてあり続けている。ぼくがこうして書いているものもまた、そうした「ドニー・ダーコ」たち(過去のぼくもまた1人の「ドニー・ダーコ」だった)に届けばいいなと思ったりした。
午後2時、ミーティングがはじまる。そこでここさいきんのぼく自身のできごとを話す。この「さよなら王国」のプリントアウトをお渡ししたり、あとはぼくが描いた絵をお見せしたりもした。整形外科、フラッシュバック、英会話教室、あるいはAIとの対話から自分を見定めんとしていることなど。それについて相手の方々からもいろいろコメントをいただけて、ありがたい時間となった。その後はグループホームの自室に戻り『子どもと哲学へ』を読む。ふと、この本に触発されてぼく個人がはじめて哲学と呼べるものを思案した思い出をふり返ってしまった。時は80年代の終わりから90年代はじめにかけて、時代が大きく揺れ動いた時期のことだ。
記憶から語るので微妙なまちがいがあると思うが、世が「純愛」に揺れて『ノルウェイの森』や『東京ラブストーリー』がもっぱらそうした文脈で読まれていた時期。ぼくの精神史はそうした光景から必然的に感じた「こんなに嫌われまくっているぼくは『純愛』がわかるわけがない」という諦念からはじまる。ただ、それでも自分自身の中にある欲(プラトニックな欲から性欲まで)をおさえきれず……それと時系列的にずれるかもしれないけれど、連続幼女誘拐事件があった後の「オタクバッシング」の雰囲気の中で「自分の好きなアニメや漫画を好きと感じるのはいけないことなんだ(大人にならなければ)」というメッセージを感受した気になったりもしたのだった。いや、いまだったら「我ながらアホだなあ(しっかりしなくちゃ)」のひと言で終わる。でも、当時はそうした「自分をふり返る契機になる他者」がいなかったのだ。
その後時代はバブル崩壊の余波がどうとかいったきな臭い方面に動いていき、高校生の頃はそんな時代の空気を喰らってか鶴見済『完全自殺マニュアル』を読み込む人間になっていた。これにかんしても「他者不在」というのは大きく、したがって「愛ってなんだろう」「なんで自殺したらいけないんだろう(こんなに苦しいのに)」と心のなかで思い悩む1人の10代の青年ができあがってきたわけだ。出たばかりの小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』を聴き込んだりしながら……いま、そんなかつてのぼくのような人たちはどんな文学や音楽、映画やアニメや漫画に癒やされているのかすこし興味が湧いてきた。
