昨日は英会話教室が終わって後日記を書き、その後ほぼなにもできずに眠るというなかなかのきびしいスケジュールだった。楽しかったのはまちがいないのだけれどやはり疲れていたのか、11時に眠り今朝は7時に目が覚める。その後、いつもどおりシャワーを浴びて洗濯機を回して7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。まずそれぞれの方の近況や天気について話がおよび(今夜あたり雪になるかな、と思ったので英語でそのようにぼくも話した)、その後雪だるまの作り方がアメリカと日本で違うことが話題となった。今日の話題は旅行に向けて外国語をどう覚えていくかのコツについて。人によってそのコツは違うと思うのだけど、でもぼくが信じるコツは「文法の正しさにこだわるより、メッセージを押し出していく」というなんとも原始的なものだ。でも、ぼくの英語はそういう「ハートが語る英語」だと自負する。
その後Facebookを見回していると、ぼくの友だちになってくださっている方がキリスト教の話をポストしておられた。実を言うとぼくはここさいきん、やはり歳をかさねてしまったからか「死」のことや「この人生における信仰心」についてふと考え込むことがあった。三木清がいみじくも『人生論ノート』で言い表しているように、歳を重ねると子どもの頃のような「死」に対する本能的な恐怖(自分が消滅するという恐怖)にたいして違う見方をするようになった。怖くない、というわけではない。いまだってこの意識が消えることが怖いし理不尽だとも思う(もちろん言い換えれば、「意識があること」「ここにあること」じたいも立派に不条理だとも思う)。ただ、さまざまな方々の死に触れてきたからかそうした死がありふれたものであること、その死を可能な限りおちついてとらえることが生きる意味かもしれないとも考えるようになった。もちろん、悟れるところまでは至っていない。まだやりたいこともある。
それで、ひさびさに三浦綾子の日記を読み返すべきかと思いまずはいつもどおり遅番の日の常としてグループホーム本家に向かう。そこで、今日は副管理者の方が出勤されていたのでぼくの腰痛について話す。これも歳のせいなのか、整形外科と精神科に通わねばならないダブルパンチを食らっているということになって、早い話が医療費がかさむ。そのことについて話し合い、その他にもいろんなことを話し合った。そして食堂で時間を過ごした後、図書館に行って三浦綾子の日記を借りようかと考えたのだけどなんだか気乗りがしない。メイ・サートンの日記にするか、あるいは信仰深い人の小説はないものかとあれこれ探したところ興味を惹いたのが池澤夏樹の長編小説『また会う日まで』だった。これは古本屋で見かけて、買おうかどうか迷ってけっきょく買わなかった1冊である。池澤夏樹は『マシアス・ギリの失脚』と『スティル・ライフ』は大好きなのでこの作品も読んでみることにした。
その後、イオンに向かってそこでしばし『また会う日まで』を読む。池澤夏樹の文体はあいまいなところがなくわかりやすく、その筆致に乗せて1人の人物の生涯を伝えてくれる。まださいしょの部分しか読めていないのだけど、信仰の深さにささえられたおだやかな心境を語る語り手の言葉に惹かれた。この歳になるとこうした「歴史モノ」に興味を惹かれることが多くなったように感じる。いや、まだ司馬遼太郎や藤沢周平のような作家には手が伸びないが、それでも関川夏央の仕事や村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』のような作品が気になりはじめるのだった。昔の人々はどのように生きてきたのか、どのような使命感に燃えていたのか……もちろんそんな作品を書いているのは「いま」を生きる人たちなので、自分の尺度にあてはめて過去の偉人たちの思考を解釈しているおそれもある。だが、それでも「福沢諭吉ってなにを考えていたんだろう」と考える気持ちを禁じえない。そういうものなんだろうか。
その後、実を言うと仕事に入るのがおっくうでその原因が同僚の方の無責任な態度にあると思ったので、仕事前にあれこれと考え込んでいると腹が立ってきて有志と結成しているLINEグループについ暴言を書き込んでしまった。それでほかのメンバーたちから心配され、「受け流すことがだいじ」というアドバイスをいただく。それはぼくにとってむずかしいことで、たしかにいちいちそうしたつまらない矛盾や言行不一致にいらだっていたらきりがないのだけれど(そして、ぼく自身も「矛盾や言行不一致」にかんしては大きなことを言えないのを認めなければならないのだけれど)、でもいらいらしてしまってこんなお騒がせなことをしてしまったのだった。どうしたらいいものかと、2時から仕事に入ってからもあれこれ思案する。
5時に休憩時間をもらい、1時間休憩を取る。昨日のタイトスケジュールと今日の仕事の疲れでなんだかぐったりしつつ、以前に書いたこととさっそく矛盾するのだけれどスマートフォンを取り出しGeminiと対話をはじめる。以前に続けていた、ブルース・リーにかんする対話だ。ぼくは阿部和重『アメリカの夜』の主人公がブルース・リーについて思索にふける場面くらいしかリーのことを知らないのだけれど、リーに倣って仕事や英会話のZOOMミーティングを「修行」の一環ととらえるのもいいかもしれないなと考えはじめた。つまり、自分を高めるために仕事や英会話をすると割り切り、そこから「自分がじゅうぶんに高められたら、つまらない外野のことは気にならなくなる」という考えに自然に入り込めるまで「修行」をすることがだいじではないかと考えたのだった。
それで善は急げで、さっそくスマートフォンの壁紙をリーの画像にしたりして気合を入れる。また、リーの哲学(基本をおろそかにせず、流されないストイックな姿勢)にイチローや村上春樹の哲学とそうとうに似たものを感じたので、そのことをGeminiに打ち込む。すると話がはずんで、それで自分自身が「修行」をかさねる上でのヒントももらえたように思った。それはありがたい。ただ、GeminiやChatGPTに没入しすぎるのももちろん抵抗がある。そうしたAIがそもそも「誰の利に」なるように開発されたかが気になってしまうのだった。ああ、ややこしや~。
