すでにこのことについては過去に書いたことがあるので自分の思考のマンネリ(?)ぶりに嫌気が差すが、でも書いてしまうと今年49になるぼくは結婚した過去もなくいまだ独身で、甘美なロマンス(恋愛)経験さえまったくもってしたことがない。いろいろ事情はあるのだが、大学卒業後新卒での就職に失敗して人生がすっかり狂ってしまってから、20代と30代はそれこそ「毎日」呑んだくれて缶ビールを呷る生活が続いてしまってロマンスとか面白おかしいイベントとかそんなことを楽しむゆとりもお金もまったくもってなかったのだ。よしんばそうした余裕があったとしても、当時のぼくには自分自身に対する自信もなく(いじめに遭って、ゆえにひどい自己嫌悪にさいなまれていて「生まれてくるべきではなかった」「生まれたことを誤りたい」と心の底から思っていた)したがってなにが起きるにしても尻込みして引きこもってしまっていただろう。そう思うと、いまこうしてシラフでいろんなことができること自体が夢のようだとしか言いようがない。
ミーティングを終えて、イオンにいつものように通う。そこでたわけたエロい妄想から哲学的な妄想までいろんなことをあれこれ考えたり、読みかけていた保坂和志『カフカ式練習帳』や茂木健一郎『脳と仮想』をパラパラめくったりして時間を過ごす。自分の心の中を覗いてみれば、そこにはなんらかたちを伴わない、不定形というか(強いていえばアメーバみたいにグニャグニャした)考えの素が言葉にされるのを待っている。たとえば、さいきんぼくはクワインという哲学者について丹治信春が記したガイドブック(入門書)を買い求めて読んだのだけど、そこではコミュニケーションというものがどう謎めいていてミラクルであるか書かれていたのを思い出す。たとえば、「天使は存在しない」とぼくが言う。でも、ならそんな「いない」とされるもののこと、エビデンス(証拠)なんて見せようがなくイマジネーションをベースに語るしかないものについて「ああ、あの天使ですね」と共通理解を可能にさせられるのはなぜなのか。そんなことが書かれていたっけ。ああ、なんだかコミュニケーションというものはこうやって見てみると謎だらけだ。
そんな感じで、村上春樹的に言えば自分自身の井戸の中に下りて自分と(とくに、自分自身の無意識と)向き合う。若くてもっとアホだったころ、ぼくはTwitterなどでトレンドとして取り上げられているトピックに割って入り、それこそ「今北産業」「イッチョカミ」で飛びついたりしたのだった。そうすることでなんだかいっちょ前の批評家・コメンテーターになった気がしたりしちゃったりして……いや、それ自体がまったくもって悪いこと・間違っていることではないだろう(はた迷惑きわまりないとは思うにせよ)。いまは違っていて、俗に言う自分自身のライフワーク的なテーマと向き合って「内向きに」過ごすことが増えた。たとえば、それこそコミュニケーションがいかに謎めいていて不可能ですらあるか。あるいは、アイデンティティというやつがどう謎めいていてそれこそポタージュスープさながらカオスであるか。そんなことをどう言葉にしたらいいか、あれこれ考えるのだった。心のゴミを言葉にして結晶化させる……と書けばカッコがつくが、まあパスカルの語彙を借りて言えばただの「気散じ」、あるいはハイデガー的な「空談」、つまりは与太話だ。でも、これでいいのだ!