単純な生活

Life goes on brah!

20260111

今朝は3時頃目が覚めて、今日は夜に控えている英語の3分間スピーチのためにもしっかり眠っておきたかったので余っていた頓服の眠剤を飲んでそのままふたたび床に就く。7時頃また目覚め、それからはいつもどおりシャワーを浴びて洗濯機を回した後7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。今日は日曜日でとくに話題を設けないフリートークの日。ブレイクアウトルームでご一緒させていただいた方々とあれこれ話し込む。今日の話題はある方の個人的な話が主でさすがにここで書けるものではないが、ぼくもなんとかその方にとって最善の答えを出せればとあれこれ考えた。考えすぎて、だいじな時に発すべき言葉を失ってしまっていたかもしれない。気をつけないといけない。

その後朝食を摂り10時より仕事。今朝のそのZOOMミーティングのことを考えながら仕事をする。お気を悪くされると思うが、語られた方の英語は技術的にはそう「巧さ」「流暢さ」を感じさせるものではなかった。ただその方の困り感やそれでも前向きに対処しようとする姿勢――おおげさに言えば「生き様」――が伝わってくる英語だったのでいまこれを書いていてもはっきり印象を思い出せる。クサい言い方にしかならないが、内側からたしかに吹き出す英語と言うべきだろうか。その英語がこちらの思考を刺激させ、ぼく自身も他人事と構えていられないと意気込んでしまう。そうした魅力があった。そうした英語に出会えるのもこのZOOMミーティングの魅力の1つだ。

ざっとそんなことをメモしたり、あとはピチカート・ファイヴ「万事快調」のパンチの効いた「Beep beep'm beep beep yeah!」というフレーズ(元々はビートルズの楽曲からの「引用」だが)を口ずさんだりしながら仕事をする。今朝方は比較的余裕があったのでメモ書きがはかどった。10時から午後1時までの3時間、過去のことをあれこれ振り返る。思えば30代の頃だったか、自分が発達障害者であることを知って間がなかった頃に「まあ、いざとなれば生活保護を受けなさい」と精神科の医師に言われたことを思い出してしまったりした。当時は生活保護にたいしていいイメージを抱いておらず、「受給したら負け」みたいな無知ゆえの偏見があってそれが「自分も堕ちるところまで堕ちたのか」とショックだったことを思い出した。

もちろんいまは生活保護にたいしてそんなネガティブなイメージは持っていない(つもりだ)。ぼくの知り合いにも生活保護を受給しながら社会復帰に向けてコツコツ努力している人がいる。ただ、あの頃ぼくはそうして受給することがぼく自身の人生の質(QOL)を高めることになるとはどうしても思えなかった。そして、絶望や自暴自棄になった感情をかかえたまま肝臓を壊しかねない飲酒にはまり込んでいくことになる(昨日もすこし書いたとおりだ)。そしてそんな中で「ここなら自分の苦しみ・絶望をわかってもらえるかもしれない(発達障害の話ができるかもしれない)」と1本電話を入れて連絡を取ろうとしたのがいまもお世話になっているNPO法人の組織である。つまりぼくが絶望に打ちひしがれていた頃、おなじ町内にすでにそうして希望の糸口が存在していたのだった。人生わからないものである。

30代というといまから20年ちかく前の話だ。当時はアスペルガー症候群という呼び名が主で、そうして診断名がついたはいいものの当のぼく自身も「それってなに(ほんとうに『障害』なの)?」と未知の概念にたいする恐怖をふくらませたり「一生治らない病気・障害なのだ」というこれまた無知・偏見からくる絶望に呑まれそうになったりしていたことを思い出す。その後「自閉症スペクトラム障害」という診断名に切り替わったり世が「発達障害ブーム」に染まったりするなんて想像もつかなかった(ちなみにぼくが自分の発達障害を疑いはじめたきっかけの1つはオリヴァー・サックスの『火星の人類学者』という著作を読んで、そこに登場する発達障害当事者のテンプル・グランディンが自分と似た特性を持っているように思えてならなかったからだ)。まして、そんなぼくの発達障害特性がぼくを導いていまの自助グループ「コネクト∞」に結びつけたりするなんて、どうして想像できただろう。時代は変わったなあ、と思う。

そんなことをあれこれメモパッドに書きつけたり考え込んだりしていくと、ときおり「ヤバい」と感じる境地が迫っていることを感じる。はなはだしく「俗(低俗)」な解釈になるが、仏教用語で「魔境(悟りを開こうとして異常心理におちいること)」と呼ぶ境地と似ているのかなと思う。もしくはニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いている(だったかな?)」という言葉に通じるものもあるのかもしれない。どちらも「深遠かつ非現実的な境地に入り込みすぎて現実との接点を失ってしまい、あとは狂うしかなくなる」という意味で共通するのではないかとぼくは勝手に思っている。バランス感覚を取り戻し、地に足を着けて呼吸をととのえることは意外にむずかしいものだ。ぼくも気をつけねばならない。

昼ご飯を食べて後、5時まで仕事をつつがなくこなす。そして帰宅途中図書館に行く。そこで、ぼくがかねてより読んでみたいと思っていた三宅香帆『考察する若者たち』があったので借りることにした。その後夕飯を摂り、9時から友だちの主宰するZOOMミーティングにて3分間スピーチを披露する。題目はぼくがふだんポケットに入れているメモパッドに英語を書きつける習慣についてで、質疑応答の際にそこまで続けられているコツや画面共有でメモパッドを映させてもらった際にいっしょに映った國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』についても話がおよび、たのしいひと時を過ごせた。

蛇足になるけれど、コツについて言えばこれはぼくが意志が強いとかまじめだからという話ではなく、単純にルーティンにしているから続けられている(ひじょうに抽象的な言い方をすると、「やらないと気が済まない」というかたちでルーティンの「奴隷」になっている)ということだと思っている。それこそ毎朝のシャワー・洗濯・ZOOMミーティングの三点セットのルーティンをこなすように……このことはもっと深く自分の中で掘り下げて言葉にしたい。