もう勘のいい方ならおわかりのとおり、こんなふうに頭の中が四六時中シッチャカメッチャカなのはぼくの発達障害の特性からくるものなので悩ましい。だから、こういう場合にやるべきことはまず土台を固めるというか、心を鎮めて落ち着いて何事かを考えられる環境を作ることなんだろうと思っている。音楽をあれこれ聴きつつ、アイデアをいつもポケットに突っ込んでいるマルマンのメモパッドに書きつけていく。ぼくのスットコドッコイな脳みそときたら、頭の中にアンバランスな(そして、きわめて古めかしい)データベースを内包しているようでそのデータベースの中にはトラウマをふくめた思い出が山ほど詰まっていて、それが無意識・識閾下と呼ばれる領域を圧迫しているのかなと思う。そんなアンバランスなぼく自身のライブラリのことを、ひそかにぼくは気に入っているのだけれど。
ついにそんな感じで七転八倒すること1時間、やっとこさ宿題の自由作文で書くべき話題を見つける。さいきんになって読み返している西部邁のエッセイとからめて楽しんでいる、さまざまなブルースについてだ(具体的にはエリック・クラプトンやB・B・キングなど)。思い起こせば、過去ぼくが大学生だった頃のこと……当時はぼくはデーモン・アルバーンやマイケル・スタイプに憧れる青二才のブリットポップ(あるいはカレッジロック)小僧でしかなかったのだが、そんなぼくにブルースの魅力などわかるわけもなくいったいどうしてこんな音楽が多くの人に愛好されているのかまったく理解できなかった。先輩たちの手ほどきを受けていろいろ教わったりしたのだけれど、結局どのブルースの名曲も構造も同じようで(もっとひどく言えば「マンネリ」の極みとさえ思えて)飽きてしまった。でも、いまはライトニン・ホプキンスやロバート・ジョンソンなんかを聴いて「味わい深い」と唸ってしまう。いや、まだまだニワカであることを認めたうえで。日暮れて道遠しである。
仕事に入り、その後休憩時間になり一服する。ブルースを聴いたりしつつ、深呼吸して自分が幸せな人間なのかどうなのかふと考え込んでしまう。人生そのものが「ムダ」というか「徒労」だと思っていた時期のことを思い出す。あるいは、ぼくたちの間にある「絆」「友情」「つながり」といったものが幻想・虚構に過ぎないとまで絶望していた時期のことを(そのころは結局、ぼくの中に救う猜疑心・疑心暗鬼からまったくぼくは解放されずそれこそむなしく這いずり回るしかなかったのだ)。いまは違う考え方を持つ。なるほど、ぼくたちがまったく百パーセント本当のことばかりを話して生きているわけではないにしても(言い換えれば、嘘だってつくだろうし裏切ることもありうるとしても)、ぼくはそれでも誰かを信じたいとか信頼したいとか思ってしまうだろう。何度裏切られても。ただ、その理由はわからない。わからなくてもいいことなのかもしれない。心の中にある切なさとか暖かさとか、切実に人を恋い焦がれたりする気持ち。「それが答えだ!」ということなのかもしれない。