跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/09 BGM: 核P-MODEL - Big Brother

今日は早番だった。昼休みになり、エビフライ弁当を食べながらこんなことを考える。いったいいつ、ぼくの周囲にあるシチュエーション(「状況」もしくは「情況」)をたしかに変えられている・改善できているという確たる・目に見えない手応えを感じられただろうか。そんなたしかな充実感を以て世界に「コミット」していて自分が世界における立派な一員と感じられたのはいつだっただろうか、とかなんとか……いや、冷静になって「いま」考えてみるとなんだか大げさでリキが入りすぎた考えで小っ恥ずかしいが、ともかくもそんなスットコドッコイなことを考えたのだからしょうがない。理由はわからない(もしかしたらさいきんちまちま読んでいたジョージ・オーウェル1984』から学んだ諸要素がまだぼくの中でくすぶっているというか、残響し続けているんだろうかとも思う)。このことについて思い返すに、この日記ではありがちな話になるがそれでも過去に戻って自分の記憶を整理することをやめられない。まだ発達障害者であるとも知らず・気づかず、自分自身の人生そのものをポイと投げ出して酒びたりになって生きていたころのことを。

しかし、もうご存知のとおりいまは実にすばらしい・ありがたい「多様性」の時代というか「ニューロダイバーシティ」とかなんとかいう時代。希望について話したい、という思いはある。これまで受けたトラウマについてあれこれこだわっていてももう始まらんかな、とか。だから思考の方向性をちょいと変えて、こんなことを質問したいとも思った。いったい、このぼくが態度を改め方向性を変えて、「いま」の道筋を歩めるようになったのはいつからなのかなあ、と。それこそいろいろ「チャレンジ」を「実験だよ実験!」の精神でこなして、具体的に言えばお米を炊いてみたりお味噌汁を作ってみたり、英語を学び始めたり皆さんがいま読んでおられるこんな日記を書いたりし始めたりしたのはいったいいつだったのか。

33歳のときに、オフ会でお会いした女性をキレさせてしまったことで苦悩していた際、ふと過去に読みあさったテンプル・グランディンについてのオリヴァー・サックスの文章を思い返して自分が発達障害者である可能性に思い至り、そこから診断を受けた。でも、それから数えて7年ほど、まだ苦悩・葛藤を経験せざるをえずついに死ぬ寸前まで行く羽目になり、酒がますます深まったりもしたのだった。当時はこのぼく自身も含めて、ぼくたちがまだまだ「発達障害」というか「自閉症スペクトラム障害」を知らず・学ぶ機会もなく、ゆえにジョブコーチのシステムについても知るわけがなくいったいどうしたらいいのか途方に暮れていたのだった(「ぼく自身も含めて」というのはべつだん「きれいごと」「社交辞令」ではない。ぼくでさえも、自分の障害は「強くなること」「タフネス」で「克服」「超克」すらなしえると思い込んでいたのである)。その後、むなしい努力を重ねて適応しようとあがき、破綻してさまよい歩き……40になり、変化が起きた。その歳に(元)ジョブコーチとお会いしたのだった。

それ以前はぼくにとって、世界は端的におそろしい、そして絶望的なところであってぼくは「独りぼっち」になった気がして、どうそんなタフなシチュエーションを生き抜いたらいいのかまったく検討がつかなかった(両親と同居していたが、仲が冷え切っていてぼくも心を開けなかった)。いま思うのは、そんなふうに孤絶した・外部といかなるつながりも欠いた、信頼おける大人がまわりに誰もいなかったという状況に加えてぼく自身の「中」を見渡してみても価値ある・信頼おけるものなんてなにひとつ見つけられなかったのだ。つまり、自尊感情や自信・信頼といったものだ。言い換えればぼくは地図も磁石も持たずに荒野をさまよい歩いていたようなもので、手がかりがなさすぎて途方に暮れるしかなかった。格律・経験知を持たず、したがって誰を信頼していいのかすらわからず、「カモ」にされてしまったりバカにされたりと……でも、ジョブコーチやいまの友だちを通していろんなことをやっとこさ学べるようになったのかなあ、とは思う。

仕事終わり、西部邁とジョナサン・ハイトの本を再読しようと何冊か図書館にて借りたが、帰ってみると眠くてそそくさと眠ってしまった。