跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/09/02 BGM: 高野寛 - ベステン ダンク

今朝、総合病院に行きそこの耳鼻咽喉科において耳の検査をしてもらう。実を言うといまだ目まい(いや、これは目まいというよりなんというか「不快感」「(なんらかの)酔い」かな)が続き、親知らず抜歯の施術をしてくださった病院の推薦で地元のこの病院の耳鼻咽喉科で確かめることにしたのだった。そしてありがたいことに、グループホームの方のアイデアでこの病院にはぼくのメンタル面をこれまで常々カウンセリングにおいてチェックして来て下さった医師も来られている。だから今回の耳鼻咽喉科の結果はその精神科の医師にも伝わるはずだ。患者として、こうした「ヨコ」「水平方向」のつながりがあるというのは実にありがたい。

その検査のあと、ひと通り診断して下さった医師がおっしゃるには目まいにおいてこれが耳から来ているものとはまず考えにくいとのことだった。身体に異常は見られない。だからもうつぶせる可能性をつぶしたあと残るのは「夏バテ」「ストレス」ということになる。なんにせよ支払いを済ませ(関係ないが、そこにおいて谷崎潤一郎細雪』の英語版のペーパーバックを読みふけっておられるシブい男性を見かけた)、自室に戻りLINEでこのことをグループホームのスタッフに伝える。もうできることは「様子見」しか思いつかない。さっさとこの不快感が消えればいいのに(医師からは薬はもらわなかったので)。

しかし、考えようによっては今回のような不幸なイベントが少なくとも1つ教えてくれたこともある。というのは奇妙な話に聞こえるかもしれないが、もちろんこれはグループホームの方々やジョブコーチやリアル・ネットの友だちとの連携(大げさに言えば「アソシエーション」)様々はあるが、それでもそうしたつながりをバックにしてこそぼくは自分の判断力・思考能力を信じて平静に振る舞えたという事実だ。少なくとも今回のことをぼくは自慢することができる。これはこれまで、ぼくが参加してきた発達障害がらみのミーティングや英会話や国際交流協会関係のミーティングといったたくさんの活動がもたらす経験ゆえのこと。それを思うと、そうした機会においてぼくをつねづね歓迎してくださるホストや参加者の方に対してそれこそ「足を向けて眠れない」というものだ。

午後、さいきん古本屋で買ったシグロ編『エドワード・サイード OUT OF PLACE』に触発されて図書館で借りたサイードオスロからイラクへ』を(もちろん進むわけなんてなかったが)読む。ぼくはパレスチナイスラエルをめぐる情勢なんてまったくもってわかるわけもないが、サイードが問うアイデンティティ――平たく言えば「私とは誰か」「それは国が保証するのか」――の問題なら少しばかりは身近に感じられる気がする(錯覚の可能性もあるけれど)。ぼくの場合まず始点となるのは日本人であること、男であること、発達障害者であること、だろうか。

振り返ってみるに、日本人であることと男であることもそれなりに苦労して受け入れはしたのだがでも他の人から見れば「よくあること」「日常茶飯事」の次元のことでもありうる。「発達障害者」という事実は過去、「ド」「弩」がつくほどむずかしいことだった(いや、ことによるといまもってなお苦労しているのかもしれない)。なら、どうやってそんなことをいまこなせているのか。サイードの本はこれまでもそれなりに親しんできたが、今回の読書において宝石のようなヒントをもらえたらと他力本願なことを願ってしまう。悲観的に考え、そして楽観的に動く。そんなサイードのモットー(これはもともとはアントニオ・グラムシという思想家の言葉らしいが)の爪の垢をもらえたらなあ、と。