跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/17 BGM: Massive Attack - Protection

今日は遅番だった。ぼくなりの「朝活」の一環として、今日も今日とてイオンに行きそこで片岡義男の渾身の1冊『日本語の外へ』を読み進め、ついに読み終える。もうこの本をぼくはかれこれ5周くらいしていると記憶するのだけれど、いまなお新鮮でこちらに訴えかける見解を挑発的に提示した本と受け取る。古い本なのにいまでも新鮮に読める、「強度」を保った1冊だ。読み終えたあとしばらく、いったい自分がなにを考えているのか見極めるべくメモパッドを広げて考えていることを書き出そうとして、文字どおり身体をよじって苦悶・奮闘する。こういう営みのことをおそらく村上春樹なら「心の中の井戸に降りていく」と呼ぶのではなかったか。わからないけれど、もしそれがほんとうならぼくは焦らず・怖気づかず静かにそろそろと、勇気をふりしぼって心の深層に降りていく必要があるだろう。

いったいぜんたい、どうしてよりによってこんなふうにいろんなことを深く深く、ムダに難しく考えてしまうんだろうかと呆れてしまったりもする。毎日毎日、ぼくはこんな感じで心の中にあることを愛用しているマルマンのニーモシネというメモパッドに英語で書きつけていくのが日課だ。でも、なんだかやっていて苦しくなるばかりなので止めたほうがいいんだろうかとも思ったりして……どうしたらいいのかはわからないけれど、なんにせよ今日はその片岡の『日本語の外へ』を通して心の中のルーツ(根っこ)を思い出すべくたどることが自分自身の見解を見出すことにつながることであり、したがって重要だとわかってきた。そうしたルーツ(根っこ)を知ることを通して普遍的な意見を提示することにつながるのではないかと思ったのだ。プライベートに(私的なまま)とどまっていた意見が、言葉を通して「見える化」されることで普遍的なものに変化するのでは、と。

実際に英語を学ぶようになる前だったか、ぼくの中には英語を学ぶことに対するおそれがあったのではないかと思う。英語がぼくのアイデンティティやこの頑固な・堅苦しい人格をぶっ壊してしまう、と。この日本においては英語はついに「外国語」なので、したがってどうしたって自然に操ることのできない言葉、まったくもって日本語とは異なるシステムを持ち自分を強制的にコントロールするかもしれない言葉として接することになる。あるいは、これはまだぼくの中ではっきりしておらず手探りでいままさに書いているのでまったくもってトンチンカンなことを書く可能性も十二分にあるが、英語はある意味では「エキゾチック」「異民族」的な言葉とさえ響く。この国の閉じた内向的な、ドメスティックな空気とはかけ離れた言葉であるとも……。

なんだか抽象的で、しかもなんの根拠も提示できないデタラメを書き連ねてしまったが、なにはともあれ英語を使ったり英語の勉強をしたりして心を英語で満たすことはある意味でぼくの卑小なアイデンティティを粉々に砕いてしまうことを意味するのではなかろうかとも思ってしまう。結局のところぼくは保守的な(というか、有り体に言えば頑固で石頭の)発達障害者にすぎない。心のどこかでは英語をペラペラに話せたらというあこがれがあることは否めない。だから英語をぼくなりに楽しみつつ学び続けているし、英語で音楽を聞くことも欠かさない(たとえば、いままさにぼくはトレーシー・ソーンの歌声に酔いしれている)。でも一方で英語によって心が侵略されることを恐れていたりもする。こんなにカタカナ英語を使いまくっているのに。

そんな外部のファクターに身をさらすことを恐れず、耐えぬけるようになれるほど自分のこのアイデンティティ、もしくは心そのもの(メンタリティ)を強く保てるにはどうしたらいいだろうか。心の中にたしかなポリシー、あるいは信念を強固に保てるようになるには。そんなことを考え込み、そしてあらためて自分の根っことなるポリシーを保ち自信を持つことが肝心かなと思った。ヘルシーな自信を持つこと。そこから外部に自分を開き、臆せずしかし奢ることもなく発信することができるようになるのかな、と。