跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/24 BGM: Blur - Young and Lovely

今朝、ほんとうなら(少し時間があったので、自分時間を楽しむべく)村上春樹『約束された場所で』を読み返そうかとも思ったのだけれどぜんぜん集中できなかった。だからいつものようにメモパッドを広げて、そこにいま考えている思考のガラクタを無造作に書き留めていくという過ごし方をしてしまった。ぼんやりと、ぼくがこれまで影響を受けてきたすばらしい書き手である橋本治のエッセイ『負けない力』のことを思い返しつつ。この日記でも書きつけてきたように、ぼくはいつもアイデアを英語で書いている。日本語ではなく。なんでなのか、ぼくにもわからない。英語はぼくに合っているから、ということで終わるのかなとも思う。

今回は知性とはなんだろうかとあれこれ考えてしまった。一度書いたことがあると思うけれど、生まれてこの方ぼくは自分のことを賢いとは思えないまま来てしまった。いまだって、ぼくは自分はたぶん知り合いの中でもっともだらしないナマケモノで、アホだなと考えている。でも、ぼくの中にある謎めいた未知の勘は賢いかなとも思う。それはずっとぼくをうまく導いてくれてきた。ぼくの脳みそは賢くなくても、センスは充分鋭敏なのかとも思えてきてそれでもう充分のようにも思う。

ぼくが10代でまだアホだった頃、大学にあった左翼の団体に惹かれた。最初、ぼくはそのころまだ天狗あるいは井の中の蛙だったこともあって世界中の人々(あなたのこともふくむ)がアホだと思っていたのだった。だからぼくが啓蒙して導かなければならない、と。まあ若気の至り……には過剰すぎるか。でも、年長のメンバーと話していたら理屈ではなく勘で「おかしいな」と思うようになった。彼らの意見がどこか自動的な、システマティックというか「判で押したような」決まり文句の域を出ないと思えたからだ。そこには吟味・内省がないように思えた(いや、これはまったくもってぼくの印象を出ないのだが)。

橋本治が語るように、ぼくは自分の頭で考える能力(あるいはそうしようという心意気・意志)が必要なのだろう。マニュアルや教科書に頼るのも大事だが、そうしすぎてマニュアル人間になってしまっては本末転倒だ。ぼくの場合、なにかを考えるというのは脳ではなく身体を使う。あるいはぼくの全存在を賭けて(大げさだが、身体が持つ「おなかすいた」みたいな感覚を総動員して)考える。上に書いてきたようなことを考えて、あらためてぼくはこのぼく自身のセンスが自分をこんなアホくさい、ゴタゴタばかりの人生において救ってきてくれたなと思った。

午後、ぼくはジョブコーチと面談を行いぼく自身の問題について話し合う。この連続して続けてきたミーティングの席で、働くことの意味・意義を見出せてきたようにも思う。実に、ジョブコーチの方の優しさとねばり強くこんなぼくの言葉を聞いてくださる尽力、そして平たい言葉で語りかけてくださる姿勢に救われてきた。こうした面談を終えるともっと働こうという意欲も湧く。もっとも、この仕事にしたって向いているとか天職だと思えたことはこれっぽっちもなく、これからも金輪際ありえないと思ってしまうのだけれど。