ああ、幸せとはなんだろう。今日は休みだった。朝、月イチで通っている総合病院に行きそこでドクターと会う。その後薬をもらい、その後イオンに行きいつものように考えごとをして時間を過ごす。今日はリー・スクラッチ・ペリーを聴いたり佐野元春『SOMEDAY』を聴いたりしながら……こんな風にして「まったり」「ゆるく」日々は、あるいは人生は過ぎていく。これでいい、と思う。こんな風にスウィートな音楽や文学、あるいは映画に酔いながら生きる。口さがない人から見れば私は紛れもない「負け犬」に違いない。稼いでいないしエラくもないし、家庭だって築いていない。ただ根無し草としてのほほんと生きている……その日その日が「ただ楽しければいい」と思い、あるいは読書や英語学習にしてもこれもまた「楽しければいい」と思いつつこなしている。私はそんな風にしてようやく自分の人生を生きる自分なりの美学・流儀を見つけられたのかもしれない。でもそれはもちろん私1人でなしえたことではない。さまざまな方との交流、さまざまなミーティングでの学びがあってのことである。断酒会や発達障害を考えるミーティング、その他いろいろ……。
「楽しければいい」という生き方・考え方は時に人の眉をひそめさせる。そんな「その場しのぎ」「刹那的」な生き方でどうするの、というわけだ。もっと堅実に・着実に将来のことを考えて生きなさい、と。だが、私は将来のことは「わからない」と思って生きている。明日のことさえ「わからない」。裏返せば、今取り組んでいることを謙虚にこなすことが明日を作ると思っている。それは断酒だって読書・英語学習にしたって同じだ。今日が明日を作る。今、この瞬間になすことが次を作る。ならば「今」を大事に生きたい。いやもちろん明日のために今を禁欲的かつ勤勉に生きることも大事だろうと思うのだが、それは私の生き方ではない。それに、断酒してわかったことだがシラフで生きること、回る頭と身体で読書や英語学習に取り組むことの得難さ(宮台真司の言葉を借りれば快楽の「強度」)は実に言葉にし難い。そして、おかしな話でおそらくそんな風に私が根っから快楽主義者として「だらしなく」「あられもなく」快楽に浸って本を読み英語を学んでいる姿が人から見れば意欲的に見えるのかもしれない。そんなものかな、と。
今日は午後から西光寺でミーティングがあった。私は「煩悩」について話す。自分自身がエッチな欲望・下心に振り回されてDiscordで女性に思慕を寄せてしまい、それに苦しんだことを。その話に他の方も食いついてこられて、「でも、その女性はほんとうのことを言っているわけではないですよね」「そういう甘い言葉はAIだって言えますよね」と厳しい意見を下さった。これが友情の力、信頼できる人間関係の魅力だなと思わされた。私は人間なので間違ったこともアホなことも必然的に「やっちま」う。そして、そんな「やっちまった」な失敗だらけ・傷だらけの恥ずかしい日々を生きながら「自分は正しい」「なぜ自分は上手くいかないんだろう」と思う。そこで矛盾・齟齬が生じる。ゆえに苦しむ……こんなこともこのミーティングで、実に貴重な「畏友」たちの言葉を得ることで学んだのだった。住職の方から「あなたから煩悩を消すと、『あなた自身』『あなたの存在』が消えてしまうのですよ」と言われたこともまた貴重に感じられた。
会がはねたあと、その「畏友」の1人である女性から「あなたは兵庫県で1番幸せな人ですよ!」と言われてしまった。そのとおりだ。過去にいじめに遭い、早稲田でずっと癒しがたい傷心を抱えて本の間をほっつき歩き、就職してからもボロクソに言われて結果的に毎日浴びるように酒を呑み、際どいことを言えば「もう死のう」「生まれてくるんじゃなかった」と思った……ああ、だがしかし! こうした「畏友」たちとの出会いがあればこそだ。出会いがあり、そこから私は発達障害という自分に課せられた重荷・障害について逃げずに肚をくくって考えるようになったのだ。あるいは、私がまさに「師」と思う方との出会いを通して彼女に褒めていただいたことで自信・勇気を持ち英語を全世界に披露するようになったし、ジョブコーチやグループホームなどを利用するようにもなったのだった。まったく、なんという人生だろう。私はそんな人生を生きてきた者として、改めて自分を果報者だと思う。佐野元春的に言えば「瓦礫の中のゴールデンリング」を自分は拾ったのかもしれない。そんなものが落ちていると信じられたことは一度もなかったのだけれど、「セ・ラ・ヴィ(人生そんなもの)」なのだろうか?