私がいつもお世話になっている西光寺の方が発行された『御名だより』という新聞が発行された。実を言うと、そこに私自身の文章を載せてもらったのだった。今日は遅番だったのだけれど、朝に私がいつものようにイオンに行き、そこで吉田健一『東京の昔』を読んでいるとある方が話しかけてこられた。その方とは英会話教室で知り合っていたのだけど、その『御名だより』を読まれたということで興味を示されたのだった。私の読書や英語のメモを見かけて「いつも勉強しておられるんですね」とおっしゃったので、「いえ違います。単にやることもないので……」と返してしまった。つくづく、これが田舎で暮らすということなんだなと思ってしまった。ここは狭い町なので、すぐに誰もが顔見知りになってしまう。『御名だより』のような活動を通して地域のコミュニティのネットワークが緊密に人と人とを結びつける。それはある意味では閉鎖的ということなのかもしれない。だが、私はこの緊密なネットワークを愛する。その方とも和やかに話ができた。
人からはよくそのようにして「いつも勉強しておられる」と言われてしまう。だが、私はいつも書いているように決して勉強しているとも思っていない。ましてそんな活動を通していっぱしの何者かになろうかなんてことは考えていない。ただ読書は暇つぶしとして行っているだけなので、「積み重ね」というのとは無縁である。要するに私はただの子どもなのだと思う。普通の人、ノーマルな人が生活を盤石に築いて子どもを育てて家庭を築いているというのに、私はそんな堅実な生活に関心は持てないので読書にうつつを抜かして夢見がちに日々を過ごしてしまっている。きれいな言い方をすれば知識欲や好奇心が旺盛ということになるのだろう。巨大な好奇心に突き動かされ(あるいはそれに振り回されて)、未知の事柄を知ろうと渇望し続けている。子どもだ、と我ながら呆れてしまう。ぜんぜん「普通」じゃない。この歳になっても「書生気質」が抜けないというか、大学生のような生き方をしているのだった。いったいこんなに本を読んでどうしようと言うのか?
だが、これまでさまざまな文学作品を読み耽ってそこから得た結論としてはこの人生は白いカンバスのようなものだということだった。今日読んだ『東京の昔』も然り。その白いカンバスの中には私は何を描いてもいい(むろん、他の人に迷惑をかけない程度にではあるが)。それくらい人生というものは自由で過激で危険なものだ。『東京の昔』を読み、そこで展開されている知性に溢れた人たちの会話に舌を巻く。吉田健一はこの本の中で、確かなダイナミズムを表現している。登場人物たちは狭苦しい島国である日本の枠を超えた発想を展開しており、私なら私がついついせせこましい、あるいは閉塞した考え方の中に閉じこもってしまうそのくだらなさ・つまらなさを指し示していると感じられた。人は元来もっと自由なものだ。あるいは、なろうと思えばもっと自由になれる。その原則をきちんとわきまえておきたいと思った。「今・ここ」に閉じこもってしまわないように。
今日は父親の誕生日だった(こどもの日が誕生日なので、覚えやすいのだ)。LINEでメッセージを送る。ああ、父ともずいぶん仲違いに苦しんだものだ……今の職場で働き始めてからも(いつも書いているように)、この私の人生をなかなかわかってくれずに「もうそんな仕事辞めろ」「おれがお前くらいの年齢の時はもう子どもを養っていた」と言ってきたっけ。殴り合いの喧嘩もした……だが、今はこうして不肖の息子としてメッセージを送れるようになるほどに仲も良くなった。これも成長・進歩と言えるのかもしれない。つらい時を過ごしたが、そんなつらい時も終わる。スティーブ・ライヒを聴きながら吉田健一『東京の昔』を読み終えて、それが終わると(他に読んでいる本もあるというのに!)金井美恵子『恋愛太平記』を読み始めた。その『恋愛太平記』が面白かったので、文字通り時間を忘れて読み耽る。ああ、なんと贅沢に時間が過ぎゆくことか。この人生はそのようにしてさまざまな本に彩られて、確かにしっかりと形作られている。