跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/19

今日は早番だった。吉田健一『時間』を読み、仕事をする。吉田健一の文章に誘われて私も時間について考える。吉田健一古井由吉の書いたものは、この年齢になってやっと読みこなせるようになった気がする。若い頃、背伸びをして『時間』や古井由吉『仮往生伝試文』『山躁賦』を読もうとしてなにがなんやらさっぱりわからず苦痛に感じたことがあった。おまけにそうやって読みこなせないことを私の未熟のように感じてしまい、ずいぶん卑屈になってしまったことがあったっけ。バカなことを考えたものだ、とそんな悲しい過去を思い出してしまった。

そんな経験からだが、本を読むのに早いとか遅いとかそんなことはないと思う。前にとある「国際ジャーナリスト」の書いたものを読んでいたら、人生の晩年に差し掛かった人が『カラマーゾフの兄弟』を手に取ったことについてことさらにバカにしているくだりとぶつかってしまった。頭木弘樹さんの本を経由してドストエフスキーを読んだ私からすれば、いつ『カラマーゾフの兄弟』と出会おうがその人にとってのかけがえのない体験として残るなら自由ではないかと思うのである。それを笑うことは、下品な喩えで恐縮だがロストバージンの年齢を競うマッチョなメンタリティとそう大差はないと思う。「一生競ってろ」で済む話だ。

奇しくも吉田健一『時間』の中の一節を、私は自分の小説で登場人物に引用させたのだった。「我々はただ生きているのでこれは生きていることが含む凡ての意味でなのであってもその生きていることに目的はなくて又それでいいのであることは寝不足の時の睡眠、空腹を覚えての食物が我々に知らせてくれる」。なんだかお経のような文章だけれどなんてことはない。「人生に目的はなくて又それでいいのである」。大事なことはこれだけだ。無目的に生まれ、生き、そして死ぬ。なんとアナーキーな考え方だろう。私はこういうぶっ飛んだ発想に惹かれる。

私が憧れるぶっ飛んだ人たち。忌野清志郎佐藤伸治吉田健一田中小実昌保坂和志橋本治といった人たちに私はずいぶん影響された。そして今、私もこうした先人たちには及ばないにせよ自分なりの哲学を書けないものかと思って「青い車」を書いている。私が生まれてきたことは無意味かもしれない。だが、決して「間違い」ではない。私は成功することはないだろう。だが、外から見てどんなに私の生き方が惨めに見えようと、私は私の心の中、頭の中で充分アナーキーでファニーな人生を堪能している。それでいいのではないか、とも思えてきた。