跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/27

古井由吉『野川』を読み終える。古井由吉の筆はやはりいい。読んでいると心が自然と落ち着くのを感じる。こんな気持ちは他には哲学や物理学を読んでいる時くらいしか味わえない(もっとも、私は入門書を味わう程度しか読めていないのだが)。古井由吉の筆は私たちのせせこましい俗世の価値観を超えて、もっと広い死生観にまで至る。そうしたスケールの大きさが私をしてそんな敬虔な気持ちにさせるのだろうと思う。それはちょうどこないだ観た小津安二郎の映画にも似ていると思った。古井由吉と小津。むろん安易に一緒にはできない造り手たちだが、たまたま私の人生でこうして重なるのは面白い。

今日は天気が良かった。吉田健一の随筆集を読み始めたのだけれど、私は読書をする時は音楽を聴く癖があるのでこれは合わせた方が面白いだろうと思ってアズテック・カメラの音楽を聴き始めた。ああ、十代の頃フリッパーズ・ギターの音楽に夢中だった時、彼らを通してアズテック・カメラを知った。当時はまだ今のようなサブスクリプションが発展していなかったため、姫路にあったタワーレコードで輸入盤に触れてまだ見ぬイギリスやアメリカに思いを馳せたものだ。大学に入ってから、ブラーやオアシスを聴き始めて輸入盤を買ったことを思い出す。どこにお金があったのだろう。

午後は時間があったので、グループホームの施設長の方に無理を言って靴選びに付き合ってもらった(10分ほどで終わった)。その後昼寝をする。春眠暁を覚えずというが、夕方にclubhouseで日本語でおしゃべりをした後夕食を食べてその後少し眠ってしまい結局映画は一本も観られなかった。小津安二郎の『晩春』でも観ようかと思っていたのだけれど眠気には勝てなかったのだった。なんだか無駄に時間をすごしているようで心苦しい反面、こんな日があってもいいのかなと自分を慰めてウェス・モンゴメリーなどのジャズを聴いてすごした。私が1日の時間割を作れないのはこんな突発的な出来事に見舞われるからだ。

3月も終わる。1年のクォーターが終わるわけだが、自分でも清々しく感じてしまうほどなにもできていないことに気づく。だが、逆に考えればなにを成したかではなくなにをしなかったかで語れることにも気づく(頭木弘樹さんの受け売りだけれど)。結局この期間私は酒を呑まなかったし仕事も休まなかった。この日記もサボらなかった。典型的な自画自賛になるが、そうした形で日々を維持できたことはよかったのかなと思ったのだった。そうだな……4月からと言わず明日からマルセル・プルースト失われた時を求めて』を読み始めるのも春らしくていいのかもしれない。読破できなくてもそんなこと気にしない、という無責任なスタンスで。