今日は遅番だった。朝、古井由吉『山躁賦』を読み終える。矛盾するものが合一して1冊の本の中に収められているように感じた。死を見据えて書くことで生きることの真髄に触れる。あるいは俗世間に染まり切ることで聖なるものの尊さを知る……古井由吉の書くものを読むと、彼自身は決して修行僧というわけではなく1人の小説家であり俗世に生きる人だったわけだが、そんな彼から見えた世界の不思議について考えさせられる。そしてその世界の謎を書く筆は静かに狂う。その狂気を恐れずにドライブさせ続けたところにこの書き手の凄味があると思った。
今年の年越し本について考えた。ちょっと前までジョン・アーヴィングの傑作長編を読み進めて年を越すことを考えていたのだけれど、ここに来て古井由吉や内田百閒、川端康成や夏目漱石といったアナーキーなクソジジイたちの本を読んで過ごすのもいいかなと思うようになったのだ。私もまた歳を重ね、そうしたクソジジイたちの仲間に入る日が来るのかもしれない。今年読んだ山本一生による内田百閒の評伝『百間、まだ死なざるや』は面白かったのでまた読み返してもいいかもしれないと思う。あとは古井由吉の未読の短編集なども。
東畑開人『居るのはつらいよ』の続きを読み始めた。彼はこの本の中で「事件」について書いている。私たちの日常生活の中で、その平穏さを乱すものとしての悩みごとの種として浮かび上がる「事件」だ。それは確かに避けたいことではあるが、私たちの心を強める方向にも作用する、と書かれている。その「事件」の1つとして恋が挙げられているのが面白く映った。色恋沙汰も確かに私たちの人生において日常の中にいきなり侵入する「異物」としての出来事である。そしてその恋が人を成長させる、という指摘に私も唸った。
私自身、これまで恋に落ちたことが何度かある。3度目の恋に落ちたのが40代始めの頃のことで、その恋は結果から言うと実らなかった。だが、恋した人、今でも親しくさせてもらっているその人から言われた言葉が今でも私の中に活きている。橋本治だったか、恋は中途半端に出来上がった人間を壊し再生させるというセオリーを語っていた。私もまた、私1人の中で閉じていた世界がその人の出現によりカオスと化し、その後「鍛えられた」「強められた」わけだ。ああ、人生とはワンダフルなものだ。さて、次にソウルメイトと会えるのはいつのことだろう。