内田百閒『冥途・旅順入城式』を読み終える。やはり恐ろしい短編集だ。そして、語り口が巧い。百閒の作品は夢の論理でできていると思う。夢の中の論理……それは夢の中に生きているならその夢の中の荒唐無稽な論理を受け容れざるをえない、ということだ。夢の中で「これは夢だ」とわかっていても、その夢から出ていく術がわからずしたがってどんな荒唐無稽なものが現れても、どんな不条理なことが起きてもそれを自分からコントロールする術がない以上付き合わざるをえない、そんな夢の論理なのだと思う。こうした夢を描いた達成はなかなか得られないものだと思う。その意味で百閒の作品は貴重だ。
百閒の作品を読み、そして小説としてポール・オースター『ムーン・パレス』を読んだ日々のことを書いている。早稲田に居た頃のことを思い出してしまう。私は当時音楽と小説を好む青年だった。当時から既に生きることに絶望しており、酒こそ呑んでいなかったものの憂鬱に苦しめられて過ごしていた。アルバイトも自分で見つけられず、したがって親の仕送りで暮らしているニート同然の人間だった。東京を意味もなく散策して、リルケや村上春樹やベンヤミンを読み(読んでも意味なんてわかっていなかったのに)、作家になりたいとぼんやり思っていた。
早稲田に居たと言えば人は大抵驚くのだけれど、でも私からすれば(下品な喩えになるが)昔アダルトビデオに出ていたとかそういう類の過去である。「バカなことをしたなあ」というような、含羞に満ちた過去だ。今の方が楽しい。今は友だちも居るし、シラフなのでご飯も美味しいし、自分の好きなように生きていける。早稲田に居た頃はなにをしても満たされず、せっかく友だちができても喧嘩別れしてしまったし、いつも罪悪感に苛まれて、生まれてきたことが間違いだとばかり思って生きていたのだった。そんな日々を思い出す。
夢のような荒唐無稽な出来事を描いた作品、ということで思い出すのはバリー・ユアグローや島尾敏雄の作品だ。笙野頼子や川上弘美も捨てがたい。彼らの作品を読んで私も夢日記を書いていたこともあったが、最近は夢を見ないので書けないでいる。過去にほうれん草の大木をチェーンソーで切り落とした話などを書いたことがあったが、そういうアイデアも出てくることもない。まあ、こういうのはミューズというか創造の女神の囁きを待つことも大事だろう。それまで古井由吉を『仮往生伝試文』やフェルナンド・ペソア『不安の書』を読みながら過ごすとしようか。