小津安二郎『東京物語』を観る。今回の鑑賞では「時が経つ」ということについて考えさせられた。時間が過ぎるということ。言うまでもなく人類史上時が止まったことなんてないわけで、時間が経過することと私たちの生活は密接につながっている。時が経てば子は育ち大人へと成長していく。その大人になった子どもは(場合によっては) 彼ら自身の子を設ける。そうして親から子へ、その孫へと様々な知識や知恵が受け継がれ社会はめぐっていく。『東京物語』はそうした、親から子へと受け継がれるべきものがなんなのかといったモチーフを描いているように思われる。多彩な観方ができる映画だと思うが、そのひとつは「親から子へ」(あるいは「子から親へ」?)託されるものはなんなのかを問うてみる観方だと思う。
尾道という地方から東京に出てくる両親が居る。彼らは東京で忙しなく暮らす子どもたちに邪険に扱われながらも、子どもたちの成長に目を見張りニコニコと甘受する(それは必ずしも「目に入れても痛くない」という愛情だけではなく「こんなはずじゃなかった」という後悔も含みうるだろう)。『東京物語』をものすごく乱暴に粗略するならこうしたスジに収まる。だが、この映画はこうした粗略に収まらない「猥雑」というか「豊満」な細部があってこそ成り立つものだと思うのだ。熱海の旅館で深夜に他の客の麻雀の音がうるさくて眠れない、といった(喜劇を出自とする小津に相応しい可笑しみのこもった)展開などだ。
これもまた当たり前のことを書くが、私たちの人生は絶えず「変化」し続ける。吉田健一が喝破するまでもなく、私たちの世界に時間が流れていることの証左としては私たちが常に一箇所に留まらず「変化」し続けているからに相違ない。「変化」し続ける世界の中では私たちもまた「変化」することが強いられ、あるいは自ら望む形で「変化」していく。それを人は成長と呼ぶわけだが、『東京物語』の中でも登場人物たちは「変化」し成長を遂げる。親を慕い甘える子どもたちだったのがいつの間にか親を疎んじ、適当に熱海あたりに追いやっておけばいいと高を括るというようにだ。
「変化」することが時間の経過を意味する……そしてその時間は過去から未来へと流れる。尾道から現れた祖母と彼女が愛おしく思う孫との場面、祖母は独り言のように孫が大人になった時は自分はもう居ないのではないか、という言葉を口にする。この映画では135分という尺の中にドラマを収めている以上、下手をするとその短い時間の中だけで完結したドラマに収まる危険性がある。2時間ちょっとで語れることなどたかが知れている、と。だが、上述した場面の独り言のようにそうした「2時間ちょっと」の映画の枠を超えた時間の経過を想像させてくれる場面がある。これは極めて示唆的だ。
この映画が単なるホームドラマの枠を超えてスケールの大きな、叙事詩のような煌めきを見せるのはひとつにはそうした時間の経過をイメージさせてくれる細部があるからではないかと思う。この映画では最後に祖父が義理の娘に対して時計を渡す場面がある(むろん、私の妄言とは関係なく時計は「時間」を刻み示す道具である)。この委託が、親の世代から次の世代へと大事なものを渡す場面として現れ、引いては親から子へとバトンが渡される象徴的な意味を示しているように思われる。そして時計を渡された原節子は年を取り、子(あるいは血縁がつながっていなくとも次の世代の人間)にその時計を託すかもしれないのだな、とこちらをして想像させる。
そうして時が経ち、親が亡くなり子は育ち、そして場合によっては新たな子を設け、社会は回っていく……これを「循環」と呼びたくなるのはあるいは悪い癖だろうか。だが、『フェリーニのアマルコルド』を想像させる(あるいは後の世代の是枝裕和の、とりわけ『ワンダフルライフ』でもいい)時間と世代にまつわる深遠な真実を綴ったかのような『東京物語』を、今回も観直してみてやはり侮れないと思った。それでいて同じようなテーマを扱っても黒澤明のような説教臭を感じさせない平坦な中に深遠さを孕んだホームドラマであることもポイントが高いと思ったのだった。