跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/26

久しぶりに小津安二郎東京物語』を観直した。小津の映画はまだ私は数えるほどしか観られていないのだが、『東京物語』は世評通り流石の映画だと唸らされる。時間が過ぎる、ということについて考えさせられた。時が経てば私たちは否応なしに変化せざるをえない。いつまでも過去の一点に留まってばかりも居られない。私たちは大人になるし、そして死ぬ。移ろいゆく時間、無常迅速。小津の映画を観るということはそうした、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という境地を味わうことなのだろうと思った。

そうした無常観について考えると、私が愛読するフィリップ・フォレストの小説『さりながら』を思い出す。この「さりながら」というタイトルは小林一茶から採ったもので、一茶の無常観や漱石の小説に触れてフランス人の視点から思索をめぐらし、それを小説に結実させた作品だ。小林一茶について書かれたものを読むのも悪くないのかもしれない。あるいは漱石を読み直したり、古井由吉のエッセイを読み直すのもいい。私も彼らに倣ってなにか新しいものを書けそうな気もする。いや、「気もする」だけだけれど。いつもそうして書き始めて、大抵は続かずに終わってしまう。

でも、そうして読書傾向が固まってしまうのもそれはそれでまずいとも思うのだった。なにか新しいものを取り入れる努力をするべきかなと思う。村上春樹に倣ってレイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドのハードボイルド小説を読むのもいいのかもしれない。矢作俊彦や原尞の作品も面白そうだ。しばらく中断していた十河進の『映画がなければ生きていけない』にまた挑むのもいいだろう。私は所詮読書は暇つぶし、と考えている。教養や修養のためなんかではない。だが、だからこそ凝ったことをやるのも面白いかなと思う。

私も今年で47歳。結局この人生なんなのか、と虚脱感に陥ることもある。出世したわけでもなく、未来に残せるような仕事をしたわけでもない。ただ本をたくさん読んで映画を観て、音楽を聴いてそれで終わる。そして、それでいいと思い始める自分もいる。この日記も250日を超えた。根気があるとか努力家だとか言われることもあるがそんなことはない。ただ、なんとなく始めたことが自分にストンとハマってしまったので続けられているだけだ。英語が上達していると言われることもあるが、それにしたってどこまで本当なのか私にはわからない。ただ、他になにもやることがないのでやっているだけだ……。