跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/04/22

今日は遅番だった。午前中、川本三郎荷風好日』を読む。自分はどうなりたいのか考えた。論客になりたいのだろうか。過去にネットで起きた様々な事件に首を突っ込んで、コメンテーター気取りでブログを営んでいたことを思い出す。バカなことをしたものだ。今はネットで偉くなろうとか有名になろうとか、そんなことは考えない。昔は肥大した承認欲求を抱えて「もっと僕を見て」「もっと僕を褒めて」と訴えていたのだけれど、今は本当に大事な人と出会えたから、そんなことも考えなくなった。等身大の自分に満足できるようになったのだと思う。

もちろん、もっと大勢の人にこの日記を読んでもらいたいという気持ちはある。読まれないよりは読まれた方が嬉しい。それは当たり前のことだ。だが同時に、あまり大勢の人に読まれても困るかなとも思っている。Twitterで何千人もしくは何万人にフォローされるというのも考えてみれば怖い。私はしょせん名もなき一市民でしかないので、そんなに目立ってどうするのと思ってしまうのだ。居酒屋が埋まる程度のフォロワーがいればあとは何もいらない、とも思う。私は結局メジャーにはなれない、しょぼいタマなのだなと思ってしまった。

荷風好日』の中で川本は、荷風のことを観察者であったと記している。世の中を鋭い視線で見つめていた、と。厭世的で個人主義的な荷風の姿がこの本から見えてくるようだ。私は荷風の書いたものをそんなに読んでいないので、『断腸亭日乗』(これは一度読んだことがあったのだが)やその他の小説・随筆を読んで学ばないといけない。荷風に倣って散歩をしてみようか、古本屋を漁ってみようか、と考える。何だか自分は流行からすっかりはぐれてしまって若隠居を決め込んでいるみたいで、これでいいのかなと思ってしまう。

そんなわけで、最近は永井荷風川本三郎ばかり読んでいる。彼らのように独居で慎ましく暮らし、趣味に生きて好きな本を読み映画を観て(荷風も晩年は映画をよく観ていた、と聞く)、そして優雅に暮らす。これが幸せなのかな、と思う。いつも書いていることだが、昔はビッグになりたいとハングリー精神を煮えたぎらせギラギラした生き方をしていたものだが、自分にしっくり来る生き方を選んでいるうちにこんな淡々とした生き方に落ち着いてしまった。これからも自分は「欲を言えばきりがないよ」と小津の映画の登場人物のように構えて生きていくのかな、と思う。