跳舞猫日録

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パティ・ジェンキンス『ワンダーウーマン1984』

パティ・ジェンキンスワンダーウーマン1984』を観る。前作パティ・ジェンキンスワンダーウーマン』はヒドい映画だと思った。私は、どんな映画に関しても拾うべき美点を拾いたいと思って映画を観ている(そうしないと時間の無駄だし、あるいは人様の映画を云々するほど立派な人生を生きていないからというのもある)。だが、『ワンダーウーマン』は本当に「ワンダーウーマン無双」で、葛藤もなければ成長もしないワンダーウーマンがバタバタ敵をなぎ倒す映画としか受け取れなかったのだった。ドラマがないドラマ、という。だから『ワンダーウーマン1984』も大して期待はしていなかったのだった。


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だが、結論から言えば『ワンダーウーマン1984』は健闘していると思った。少なくとも「ワンダーウーマン無双」な映画ではないからだ。ワンダーウーマンはこの映画の中で弱さを見せる。こういう口ぶりはお叱りを受けるかもしれないが、「人間臭さ」や「女らしさ」を見せる。故にこの映画が説こうとするメッセージは引き立つ。「嘘」を生きるのではなく「真実」を愛し「真実」に生きること……と語ってしまえばかなりクサくなるメッセージを、この映画はきちんとした起承転結のあるストーリーを用いて語ろうとしているように感じられた。そこに好感を抱き、映画に関して前のめりに接したいと思ったのだった。

「嘘」について、あるいは「欲望」について……これはなにも現代思想好みの高尚な話題ではなく、私たちが常に持っている日常的な悩み(煩悩?)であろう。もし私が私でなければ(それこそワンダーウーマンみたいな素敵なヒロインだったら)……この映画ではそんな「欲望」としての「嘘」を「真実」にしてくれる石が登場し、それが全世界を破滅させるほどにまでパニックを引き起こす存在として登場する(その石が持つ破壊のメカニズムを具現化した存在として、ワンマン社長のマックスという男が登場し「ジョーカー」ばりの怪演を披露する。この俳優、なかなかやるなと思った)。

映画が語るメッセージは簡単なもので、もちろん「欲望」としての「嘘」を否定する。そして、「真実」に忠実に生きるように伝える。「真実」としての私たちは決してパッとした存在ではない。少なくとも私はみっともない存在であり、「有名」でもなければ「富」とも無縁の存在だ。だが、そのような存在こそが自分を愛し受け容れることが世界を救う。そのように映画は進行していく。だが、それはそれでいいのだがこの「真実」を見つめるメッセージは、ある種の敗北宣言ではないのかなとも思うのだった。「欲望」「嘘」と、健全な自分を見つめたが故に描く「理想」はまた違うものでありこちらまで否定することになりはしないか、と。

また、私は意地悪な存在なので気になるのである。この映画ではワンダーウーマンになりたいが故に石に対して欲望をぶつけ、最終的にワンダーウーマンと一騎打ちをするまでの悪のヒロインとなるバーバラが存在する。だが、バーバラが悪のヒロインとなったのは優しさを代償として失ったからだ、とワンダーウーマンは指摘する。この「バーバラの優しさ」が見える場面がホームレスに優しさを見せた場面くらいしか見当たらないのが気になる。考えてみれば、マックスの根の部分の人の良さである良き父親ぶりも息子を通して見せられる。ホームレスと息子……どちらも無力で無垢な(イメージを付加されうる)存在だ。そのようにしてしか悪の存在となる人々が備えている美徳が描写されないのは問題ではないかなとも思う。

とまあ、映画としての評価を置いてけぼりで私が気になったことを書き殴ってしまった。いつものことと見逃していただきたい。私は、ストーリーに起伏がついてなおかつメッセージ性を明確に打ち出したという意味でこの映画を評価したい。だが、エジプトや第三世界の描写があまりにもステレオタイプなので、エドワード・サイードみたいな人がこの映画を観たら怒り狂ったのではないかとも思うのだった……と書いて、考えてみればサイードの主著『オリエンタリズム』も一度しか読んだことがないので誤解しているかもしれないと思い、読み返してみたくなった。その意味では収穫だと思う。