大九明子『甘いお酒でうがい』を観る。確かにタイトルの通り、甘くほのかに酔わせてくれる映画だと思った。私は俳優で映画を観ない。相貌失認なのか、人の顔をなかなか覚えられないからだ(蒼井優と池脇千鶴を見分けられず恥をかいたこともある)。だが、この映画を観ていて松雪泰子の魅力を知り、黒木華が演じる天然キャラに不覚にも惚れてしまいそうになった。言い換えれば、この女優陣の好演がこの映画をなかなか忘れられないものにしていると思われたのだ。そして、その女優を活かす脚本や構成もしっかり計算されており、結果として光る作品となっているように思われた。
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川島佳子という女性が書いた日記という体裁を採るこの映画は、彼女が体験した日々がそのまま映し出される。もちろん映画というくらいだからストーリー性はある。事務的に整理すれば、佳子は40代の派遣社員で小さな出版社で働いている。後輩の若林といちゃつくほどに仲がよく、ふたりは一緒に食事をしたり遊んだりする。そこに、若林の大学時代の後輩である岡本という男が入り込む。佳子は岡本と恋仲になる(一種の「ガール・ミーツ・ボーイ」だ)。その恋仲は、進むようで進まない。このなんら手に汗を握らせないドラマ(?)は、一体どこへ向かうのだろうか……という話である。
私自身の話をすれば、この映画を観ていて思った(というか、思い出した)のは「終わりなき日常」という概念だった。これは宮台真司が言い出したことで、つまり今日は昨日の繰り返しのようなものであり、劇的なカタストロフ/世界の終わりはこないまま淡々/粛々と成熟社会を生きるしかなくなる。それは砂を噛むような日々だ。その「日常」を生きるために、例えば女子高生は援助交際に勤しみある種の若者はダンスに興じる。そうした「意味から強度へ」、楽しいことをなんの意味も介在させず行う知恵が大事だ……というような理屈である。私自身、このロジックが好きで今でもどこかで生きる上での大事な指針となっていると思う。
この映画に話を戻せば、『甘いお酒でうがい』が描くのはまさに「終わりなき日常」である。だが、その「終わりなき日常」自体は実は楽しいものでもありうるのではないだろうか。佳子は自転車で通勤するが、その自転車は時折駐車違反で移動される。しかし、サドルに手を伸ばしおまじないめいた手つきで自転車に乗り、ベルを鳴らし犬が反応するのを楽しむ。たったそれだけのこういった細部が、しかしこうして観終えたあとにも微笑ましい箇所として残るのだ。これは私の記憶力がいいからという問題ではなく、細部を描く製作者たちの手つきがチャーミングだからなのだろうと思う。
この映画では実に細部がこちらに「あとを引く」ものとして残る。誕生日を知らなかった若林が佳子の前で「教えてもらえてなかった」と不貞腐れる場面。そこで蕎麦をすする音、相手を無視して食べる食べ方がこちらを微苦笑させるものとして残る。この映画ではタイトル通りお酒で「うがい」をする場面も出てくる(もっとも、呑み込むのだけれど)。それ以外にもSNSをうまく使った心理の駆け引き、及び彼らなりの省察。そういった本当に「だからなんなの?」な細部がチャーミングにこちらにせり上がってくるのだ。そこを買いたいと思った。そして、それは日記形式をそのまま採用した製作者たちの野心の帰結でもあろうと。
フェティッシュ、という特質/美質もこの映画を形容するに相応しいかもしれない。冒頭、靴を履く場面で靴は舐めるように映し出される(何気に「足」に接写した場面が少なくないのも気になる)。あるいは配置される森高千里「私がオバさんになっても」やパッヘルベルのカノンといった音楽の巧みさ。思惑通りにいかない、時にはセクハラすれすれの言葉に出くわすその心理の揺れを監督や製作者たちは見事に描き、こちらを唸らさせる。アンニュイな四十路の主人公の言葉はこうして自家中毒を起こさない、甘いつぶやきとしてこちらの記憶に残るのだ。このつぶやきの強度を舐めてはならない。