跳舞猫日録

Life goes on brah!

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス『リトル・ミス・サンシャイン』

ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリスリトル・ミス・サンシャイン』を観る。ひと口で言えば、苦笑いするしかない映画だった。口の中に広がるのは苦味ばかりで、甘くこちらを酔わせてくれる瞬間がない。それだけこの映画が非常に辛辣にジョークを繰り出してくるからなのだと思う。これ、不謹慎なのではないか……とたじろいでしまうような対象をもこの映画は笑いに変えてしまう。だが、それは決して「笑える」笑いではない。だから私は「苦笑い」と書いた。私もこの映画に倣ってもっと辛辣にこの映画を評するなら、この映画はコクがないのだ。あとに残るものがなにもない、というか。


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ある家庭がある。お爺ちゃんはちょいワルどころではない毒舌を吐き、ドラッグに明け暮れる老人。父親は自己啓発セミナーの主催者でありながら無名。母親はまあ普通の人だが、同居することになった母親の兄はプルースト研究者でありながら大学をクビになり自殺未遂を起こしたばかり。息子はニーチェを読みこなす知性派だがテストパイロット目指して無言を貫く行を行っており誰とも話さない。こんな「濃い」面々によって交際される家庭にとある椿事が起きる。主人公となる娘のオリーブはカリフォルニア州で行われるミスコンへの出場が決まるという大金星をあげたのだ。かくして、一家はほうほうの体になりながらミスコンへの参加目指して800マイルの旅を強いられる。

どこから語ればいいだろう。まず気になるのは、プルースト研究者の兄の描写。彼は実はゲイなのだ。今でこそゲイの人は多角的に捉えられポリティカル・コレクトネスに配慮された描写が求められるが、この映画が発表された当時はまだそこまで意識が進んでいなかったのか、彼を「ホモ」呼ばわりする描写がさほど作中で批判されるでもなく公開されてしまっている。もちろん同性愛者を「ホモ」と呼ぶ人を出すことが自動的に「差別的」になるというわけではないが、このあたりの誰かに対する一方的なレッテルの貼り方の無神経さ(と敢えて書く)がこの映画の笑いのセンスや細部のガバガバさに見合っているように思える。

この映画のネタを割ると、実はこの家族の珍道中の途中で死者が出る(自然死としてだが)。だが、その死に対してこの映画は「それでもミスコンに行く」という答えを出す。このあたりも、「いやそれで問題ないじゃん」と言えば言えるのだ。死者の思いを背負ってそれでもミスコンに。涙ぐましいストーリーになる……だが、一方でこの映画にイイ味を加えていたキーパーソンの死をそんなにあっさりと片付けていいのかと疑問に感じざるをえない。死者が出たのならそれなりに喪に服すなりやりようはあるだろう。それともこの映画は不条理劇を目指している、というのだろうか。そうではないだろう。だから私は絡んでしまう。

他にもツッコミどころはある。テストパイロットを志願していた兄が、とあるきっかけで絶望に陥る展開がある。しかしこれも、無言を貫く行をやるほどまでにテストパイロットへの道に入れ込んでいたならとっくの昔にエンカウントしていてもおかしくないきっかけなのだ。一体あなた今までなにやってたの、と半畳を入れたくなる。挙げていけばアラはこんなところだろうか。これは決して重箱の隅をつつくような失態ではないはずだ。もちろんこの映画の美点を拾いたいとも思うのだが、ではこの映画はどんな救われ方をすべきだろう。キーとなるのは「負け」をどう捉えるかだろう、と思う。

ちょいワルの爺さんが語るように(この「ちょいワル」だからこそ人生の酸いも甘いも噛み分けている、という描写も意地悪く言えば「紋切り型」なのだが)、真の敗者とは挑戦して挫折する人間ではなくその挑戦を嘲笑う人間なのだ。このメッセージは賛同したいと思った。しかし、ならそのメッセージが浮き上がるかどうか。この映画の持つ毒を過小評価したくはない(ミスコンでいよいよ……という展開でまさかのリック・ジェームスのファンクを流すのはなかなか私好みだ)。だからこそ、この人情落語のようなストーリーを許せるかどうか。厄介な踏み絵に遭遇してしまった。