跳舞猫日録

Life goes on brah!

ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

ジョエル・コーエン&イーサン・コーエンインサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』を観る。またしても自分語りがマクラになるが、生きていて時折「おれって一体なにをやっているんだ……」と思うことがある。こんな人生を送るつもりなんてなかったのになあ、と。子どもの頃に思い描いた未来予想図では自分は結婚し、作家として名を成し、子どもを授かり一戸建ての家を持ち……のはずだったのにもちろん現実はそうはなっていない。のだけれど、その理想(妄想?)と現実のギャップからくるやり切れなさを呑みこんで生きるのが人生なのではないか、と考えるようにもなったのである。


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タイトルが示すようにこの映画の主人公の名はルーウィン・ディヴィスである。ひとりのしがないフォークシンガーなのだけれど、映画は彼を見舞うミクロなドラマをクールなタッチで描写する。主に寒々しいニューヨークで展開されるドラマはこちらも観ていて寒さが感じられるようで、リアルにできている。だが、ルーウィン・ディヴィス(オスカー・アイザック)が歌うフォークソングの数々がこの映画に独自の温もりを与えているように思う。そして、この映画は猫が印象的なアクセントを与えている(しなやかな肢体の動きがこちらに温もりを伝える)。その意味でもクールさとホットさが独自のバランスでブレンドされた見過ごせない作品となっているように思う。

本当に、これといってスジなんてあってないような映画だ。預かっていた猫が行方不明になる、恋人(元カノ?)が妊娠する、レコーディングに参加する、成り行きで珍道中を走りシカゴで歌を披露する……そんなとりとめない出来事が串刺しになった作品なので、一見すると退屈なミニマリズムで終わってしまいそうな話でもある。だが、そこがオフビートというか、「ジム・ジャームッシュの世界を角度を変えて撮ったらこうなるのかなあ」と思わせられたりするのだから映画というのは面白い。コーエン兄弟は食わず嫌いで『ファーゴ』程度しか観ていなかったのだが、これは迂闊だったと恥じさせられた。

それにしても、人生とはままならないものだ。頭の中で算段を整えて動いても、必ずその算段(昔流行った言葉を使えば「想定内」)に収まらない出来事が展開される。もらえるはずの金がもらえないかと思えば失踪した猫が見つかったり(だが、これはぬか喜びに終わるのだが)、意外なところで辻褄が合うような合わないようなそんなデタラメさを見せる。だが、それこそが私たちの人生ではないだろうか。なにもかも思い通りに、別の言い方をすればシミュレーション通りに行くわけではないから人生は面白い。故に、この映画は(大げさな言い方をするが)そんな「思い通りに行かない」人生を悪態をつきつつ生き抜く知恵を示しているように思う。

いつも映画について語り始めながら私のことしか語れていないのがもどかしいのだが、この映画についてはその悪ノリが更に加速しそうだ。ジム・ジャームッシュの世界の再解釈、と書いたが別の角度から語ればこの映画はアキ・カウリスマキの美学にも似ている気がする。ささやかな日々の出来事の中に「なんだかなあ」とため息をつきつつも楽しみや喜びを見出し、「こんな毎日にとりあえず文句つける」(フィッシュマンズ)姿勢で生きること。ジム・ジャームッシュカウリスマキの境地でアメリカの若手のミニマリズム小説を撮ったかのような、そんな味わいを感じる。

だが、のんきなことを言いたいのではない。この映画でのルーウィン・ディヴィスの元相棒が自殺を遂げたことが知らされ/書かれていることからもわかるように、コーエン兄弟の目はこの世の残酷さにも向けられている……いや『ファーゴ』の監督なんだから当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、そのシビアな視点があってこそ光り輝くフォークソングの世界であり「終わりなき日常」そのもののダルい生活ではないかと思ったのである。コーエン兄弟ヒューマニズム的なアプローチを採りつつも甘っちょろくない、かくも渋みのある映画を撮ってしまう。なかなか侮れないと思った次第だ。