跳舞猫日録

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小津安二郎『小早川家の秋』

小津安二郎小早川家の秋』を観る。私事から書き始めると、小津の映画はどうしても構えて観てしまう。それは決して「クラシック」だからと言うのではない。ただ、ゴダールトリュフォーを観るようには無邪気に小津を楽しむ(というか、悪く言えば小津と戯れるというかコケにする)気にはなれない。小津の映画には独自のテンポがあり、それが掴めないのでいつも苦労している。もちろんノーランにはノーランのテンポがありフィンチャーにはフィンチャーのテンポがあるわけだが、小津のテンポはかなり癖があるので無理矢理身体を慣らして観ているというのが正直なところだ。そのように「思い通りにならない」映画だからこそ私は小津に対して畏怖を覚えるのかもしれない。

小早川家の秋』というタイトルが「秋」という言葉を含んでいるので、小津の映画における「秋」とはなんだろうと考えてしまう。『秋日和』や『秋刀魚の味』といった「秋」と近接する他の小津の映画についても思いを馳せてしまうのだけれど、「秋」は一年における季節的なものだけではなく私たちの人生における「秋」の時期の訪れを意味しているとも言えるだろう。既に盛夏を過ぎて、黄昏れゆく「秋」の時期へと移り変わる、別の言い方をすれば「ミドルエイジ・クライシス」とも言える時期。今ならまだまだ無邪気に「人生これから」と言える年齢の原節子も、この映画では既に人生も半ばを過ぎた未亡人なのだった。

小津はこの映画で、彼が十八番としたお見合いの話を展開させる。それは斬新なストーリーというより既視感を感じさせるものであり、もっと言えば別の作品を換骨奪胎したかのようなものとも錯覚させる。中村鴈治郎が京都の別の女性との間に子どもを授かっているという構図は『浮草』を思わせるし、原節子のお見合い相手を探す映画であるという意味では『晩春』やその他の珠玉の逸品が想起させられる。つまり同工異曲であり、もっと言えばマンネリズムなのである。だからいけない、とはもちろん言わない。マンネリズムを食い破るなにかが出てきているとも思われるからだ。

では、そのマンネリズムを食い破るものとはなにか。その内のひとつは「死」ではないかと思う。小津の映画では人は時に呆気なく死ぬ。『東京物語』での呆気ない「死」がその呆気なさ故に逆に人々の心にいつまでも消えない印象を残し続けるように、この映画でも中村鴈治郎は「死」んで舞台から消滅する。私たちの人生は言うまでもないことだが、いずれ「死」ぬそれまでをどう過ごすかという中身の謂である。深沢七郎的に言えば「死ぬまでの暇つぶし」でもある。だが、小津はここで「死」を絶対的な消滅としては取り扱わない。もっと彼は深い次元で捉えようとする。

この映画では笠智衆が登場する。火葬場の煙を見つめる農夫としてだ。そして、彼は「死」んだ誰かが居ることを悟り、そしてその「死」のあとにまた誰かが生まれてくることを語る。「死」の次に「生」があり、その「生」きた人間はまた「死」ぬ。そのサイクル……それを回しながら私たちは生きている。そのサイクルこそが私たちの生そのものなのだと嘯く。この語りに、私は昔読んだ保坂和志の小説を思い出した。そうして流れとして捉えること、「死」を終わりとしてではなく新たな始まりとして捉えること。それがこの映画のエンディングを奇妙に明るくしていると思う。

それにしても小津の映画は謎だ。小津の評伝を読んでいると彼が取り立てて宗教や哲学にハマったというわけでもなさそうなのに(そんな事実があるなら、むろん私の不勉強が露呈するのだが)、彼は悟り済まして深い真実を映画の中で伝えようとする。だが、それは一般の人たちにも受け容れられるような懐の深いものでもあるのだ。この間口の広さはどこから来るのだろう。その神秘を読み解きたくて(蓮實重彦から中野翠まで、小津を語る人間は時に神秘主義者の相貌を見せたりしないだろうか?)私はこれからも小津の映画を観続けるのかもしれないな、と思った。