跳舞猫日録

Life goes on brah!

ジム・ジャームッシュ『デッドマン』

ジム・ジャームッシュ『デッドマン』を観る。考えてみればジャームッシュという人は多才なのかそれとも器用貧乏なのか、よくわからない(もちろん、全ての作品を観ていないのでこれは当てずっぽうの推測が入るのだが)。作品は時にシュールに非現実的な要素を取り入れて膨らむかと思えば(『葉隠』を読む黒人の殺し屋、吸血鬼、ゾンビ、等など……)、結局映画の中で起こっていることは地味な日常生活の描写でありそれ以上でもそれ以下でもないような不思議な作風なのだ。そこに人は惹かれてしまうのかもしれない。一癖も二癖もあるジャームッシュが撮った西部劇である本作も、実に「らしい」作品だった。

ウィリアム・ブレイクという青年が居る(この名前だけで「わかる人」はジャームッシュの引用癖にニヤリとしてしまうはず)。彼は仕事を求めて会計士としてとある企業に赴くが、そこで門前払いを食らわされる。成り行きで花売りの娘を窮地から救うも、彼女と一緒に居るところを男に見つかり殺してしまう。自身も深い傷を負い、そのまま死ぬかというところをネイティブ・アメリカンに助けられる。彼は、ブレイクの名前がイギリスの偉大な詩人と同じであることを察する。ノーバディと名乗るネイティブ・アメリカンの手ほどきで、ブレイクはガンマンとして成長していく。これがプロットである。

ストーリーだけを粗略してしまえば、よくある「ビルドゥングスロマン」である。最初は銃声が聞こえるだけでオドオドしていた情けないキャラクターだったブレイクが、次第に自分自身銃を撃つ主体として成長していくところが見どころであると言える(このあたり、流石はジョニー・デップ。うまく「ヘタレ」と「男前」を演じ分けていると思った)。だが、ストーリー自体はくどくなってしまうのだけれど「行き当たりばったり」なところがあり、もしかするとジャームッシュはなにも考えていなかったというか、即興で物語を作ったのではないかとさえ言いたくなる(むろん、これが立派な「暴言」であることは承知している)。

だが、ジャームッシュはいつだってそうだった。ウェルメイドな「起承転結」があるストーリーではなく、「起」のまま話が進まない。そんな筋書きのドラマを観せてくれる監督だったのではないか。『パターソン』が本当に一週間という時間を反復を巧みに用いて(主人公のバス運転手がバスに乗り、仕事をして帰って、そして妻と過ごして眠る、というパターンを繰り返す存在であることを強調して)表現していたのを思い出そう。『デッドマン』でも、こちらの裏をかくようなストーリーテリングが繰り広げられる。私たちがお目当てにしているような「ガンマンと追う者の一騎打ち」のようには話が進まない。

それにしても、ジャームッシュは本当に「3」が好きなんだなと思った。「3人組」の美学と言おうか。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で展開された男2人と女1人の3人関係は、『ダウン・バイ・ロー』でも踏襲される。この映画でもブレイクを追いかける殺し屋は「3」人なのだ。いやだからなんだよ、という話ではあるのだけれど「3」とはいつ「2対1」に転んでもおかしくないバランスの悪い(据わりの悪い?)数字であることを考えると、この関係を巧みに使いこなせるジャームッシュが人心をよく読んだ監督であることがわかるように思うのだが、どうだろうか。

ニール・ヤングによるフリーフォームで演奏された音楽も相俟って(いや、本当にジャームッシュは音楽の好みも渋い!)、この映画はひときわ「枯れた」風情を漂わせている。とはいえ、考えてみれば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』からジャームッシュは「枯れた」監督だった……とまたもや「暴言」を吐いてしまいたくなるから我ながら困ったもの。スピリチュアルなメッセージを内包しているようで、実は意外と即物的に「人はいずれ死ぬ」という結論を打ち出しているかのような、そんな意外と不親切でもあるような、なかなか興味深い映画のように思われた。