跳舞猫日録

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ビー・ガン『凱里ブルース』

ビー・ガン監督『凱里ブルース』を観る。当たり前のことだが、デビュー作を論じるのは難しい。なぜなら、その監督がなにを摂取して育ちどう試行錯誤してきたか、原則としてはそのデビュー作に触れる以外に他に知る材料がないからだ。デビュー作が俗に言うラッキーストライクで終わる人なんていくらでも居るだろうし、パッとしなかったデビュー作から化けた人も居るので芸術の世界はわからないものだが、ではこのビー・ガン監督の『凱里ブルース』とはどういう作品なのだろう。私は、これは実に挑発的な作品だと思った。デビュー作にして既に守りに入ってる作品もありうるので、それと比べれば好感は持てるというものだ。


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それにしても、この『凱里ブルース』とはどういう作品なのだろう。私はめんどくさいことが嫌いなので、既に冒頭の段階でストーリーを律儀に覚えるのを止めてしまった。この映画は映像で語る叙事詩(いや、抒情詩≒「ブルース」?)ではないかと考えたからである。その意味ではこの映画はあの巨匠アンドレイ・タルコフスキーに似ているのかもしれない。タルコフスキーほど宗教臭くないのだが、その代わりに中国の土俗の風景を盛り込んだような、そんな土の匂いのする映画のように受け取れたのだ。しっかり随所に水が頻出するところもタルコフスキーを思わせてニヤリとさせる。

果たしてそんな鑑賞から感じ取れたのは、この監督が世界を私たち(と、主語を広げてしまうのだが)が観ている/捉えているようには捉えていないかもしれない、という可能性だ。冒頭の引用が語るように、この映画は移ろいゆくものへの慈しみを描いているのではないかと思う。時間とともに変化する風景……そう考えてみると、映画というのは(これも当たり前の話になるが)2時間の作品なら2時間ともかくもなにかを映して、それが移ろいゆく様を見せるというどこか暴力的な(?)媒体であるようにも感じ取れる。だが、吉田健一が喝破したようにそんな変化こそ時間経過の謂なのだ。

この映画を観ていて、私は前述したタルコフスキーだけではなく例えば土がむき出しになった大地の上に佇む女性たちの服の色使いに、あのゴダール『ウィークエンド』をも連想させられてしまった。連想ということで言えば私は無責任なのでもっと次々と連想させることができる。現世と冥界の混交を描いたかのような独特の「まったり」した空気感はアピチャッポン・ウィーラセタクンブンミおじさんの森』的でもあろうし、初期のトラン・アン・ユンにも似ていよう。タルコフスキーゴダールとは違って彼らは東洋人なのだから、同じ心象風景を共有できても不思議ではない。

つまり、この映画はそんな東洋的な心象風景や価値観を独自の語り(マジック・リアリズム?)の中で消化/昇華した映画のように思われたのだ。だが、同時に西洋的な映画の技法や美学が参照されてもいる……なんて、まだタルコフスキーゴダールの影響があるかどうかなんてわかりっこないのに書いてしまうのが私の悪いクセなのだけれど。だが、この仮説が仮に正しいとするなら、この監督は村上春樹のように自分自身を東洋の要素と西洋的な要素が結びついた媒体として育ってしまった監督なのではないか、とも大ボラをこちらに語らせる存在ではないか、と悪ノリをしてしまうのだった。

ビー・ガン。なかなか侮れない監督を知ってしまった。ただ、この映画だけではまだその野心や挑発が萌芽としてしか読み取れない部分があるとも思う。いや、ここまでワンカットで長々と撮ってみせる手腕を見せられてしまうと(この手腕から、決して頭脳派の狡知だけが突出した監督ではなく、こうした「偶然」を引き寄せる天性の体質があることをも伺わせる)、このデビュー作は成功だと言えるだろう。だが、もっと美学に徹して実験を行うか、クラシックな完成度を高めてストーリーの純度を高めるかしてもよかったのではないか……とないものねだりをしてしまいたくなる。