よく知られているように、人生とは基本的に実に謎めいており同時にワンダフルでもある。思えばぼくが40の歳に英語を学びなおすことを決めて手探りであれこれはじめたころ、まさかこんな病的なまでに飽きっぽい・移り気の多動性を持つぼくがいまに至るまで10年ほども英語学習を続けられるとは思えなかったのだった。そして、そうして学び続け英語でこうして発信し続けることがさまざまなグローバルな友情というのか、なんといったらいいのかよくわからないけれど親密な人間関係をもたらすにまで至るなんて思いもよらず……いまやぼくにはDiscordやMeWeや、その他さまざまなソーシャルメディアでつながらせてもらっている方々がいる。そんなこと、事前に予期できるわけがない。そうした経験を思い返すに、英語学習がぼくの見地を広げ・かつ深めたことは間違いないと思う。
午後になり、WhatsAppで友だちに近況とさいきん起きたつらかったできごとについて送る。すぐに、インドネシアやロシアの友だちからとても心のこもった、あたたかい返信をいただく。このつらかったできごとをつまびらかにするわけにはいかないが、それでも望んでいたとおりの結果は得られなかったにせよ大事な「ティップ(手がかり)」をもらって次に進めるまでに至れたと思った。ああ、とても危険で恥ずかしい選択をしてしまい、それでいまだに少しばかり後悔の念を感じなくもない。恥知らずでもあったかな、と……そして、じっさいわかっていたとはいえ、それは失敗として終わってやれやれとも思った。でもそんな純然たる失敗・玉砕が大事な学びをもたらしてくれたとも言えるわけだ。このできごとに関わった、アドバイスやティップをくださった方々に心の底から感謝を禁じ得ない。
それはそうと話は変わり……もう1つ注意しないといけないことがあるな、と思ったことを書き留めておきたい。自分自身の出自から、ぼくはいつも発達障害とぼくが持つ精神疾患についてあれこれ好き勝手に書いている。だが、ある大事な・シンプルな原則に立ち返る必要があるようにも思った。つまり、ぼくは医師・カウンセラーではなくしたがってなんら専門的な学識を持った人間ではありえないという端的な事実だ。ぼくの語ること・そこから得られたことはぼくの人生の経験がベースとなっていて、だから正確なセオリー(学説)に裏打ちされた普遍的なものではない。いやもちろん、だから価値がなくなるというものでもないだろう。だが自分の個人的な語りにはそれ相応の限界がありうる。それに自覚的であることは大事とも思った。
人生を振り返り……いまの状況について、まったくもって予期できるわけもなかった。さっき書いたとおりだ。だが、いまはお気に入りの活動に打ち込める。英語を学んだりこうやっていろいろ書いたり、読んだりあれやこれや。そう考えると世の中、明るくなっているのかなあとかなんとか。