跳舞猫日録

Life goes on brah!

ジャン=リュック・ゴダール『ウィークエンド』

ジャン=リュック・ゴダール監督『ウィークエンド』を観る。最近山田宏一の力作『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』と『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』を読んだのだけれど、未だに私はゴダールという人をどう捉えていいかわからないでいる。巨匠、と言われれば確かにそうなのかもしれないが、それはトリュフォーキューブリックをそう呼ぶのとはまた意味合いが異なるとも思う。エンターテイメントではなく実験性に舵を切り、それが結果としてエンタメめいた騒ぎを起こしたのだから。彼の映画はいつだってスキャンダラスであり、駄洒落になるが実験が事件になってしまう監督であり、それ故に食えない人であったと思っている。

『ウィークエンド』はしかし、改めて観てみると実に血腥い映画だ。そしてエロティックでもある。冒頭で女性が執拗に告白するセックスの記憶がキツく、これから展開されるゴダール・ワールドの食えなさを予感させる。ストーリーとしてはかなりヘンテコなロード・ムービーである。車を走らせ、登場人物は前へ前へと進む。途中で彼らは車を故障させ、したがって他人の車に乗せられて更に前へ前へと進む。最後に彼らがたどり着くのは、ちょっと予測がつかないような世界である。そこに政治談義と薀蓄とサンプリングが挟まって、ゴダールらしいカオスを作り上げる。

なにをどう書いても私感というか感想にしかなりようがない。なのでそれに居直って書きたいように書くことにするのだが、ゴダールの映画と言えば私はまずポップさを連想する。ポップさ、というのはある種の心地よさと言ってもいいかもしれない。もっと直截的に言えば悦楽/快楽だ。ゴダールの独特のタイポグラフィ(文字のフォントで魅せる遊び心)と色使い、そして多彩な引用は理屈を超えるというかこちらの脳に理解不能な刺激を与えて麻痺させる類のものであり、少なくとも私は安心して思考を停止してゴダール・マジックに浸ることができる。今回の鑑賞でもそのマジックというか胡散臭さは変わらないな、と思った。

しかしこの映画を注意深く観てみると、くどいがやはりナスティさというか血腥さと空虚さにおいて記憶されるべき映画のようにも思うのだった。屠殺される豚や鶏や兎(?)をめぐる光景、彼らが無造作に/無邪気に発砲する銃、車に轢かれる人物たち。流血もカメラに収められており、従ってポップさとは離れた映画……になるはずなのだ。だがゴダールは、ホラー映画の文法とはまた違った形で流血沙汰さえもポップに仕上げてしまったかのように映る。これはもちろんゴダールが人殺しを肯定している、という理屈ではない。ただ、人殺しさえも捉えようによっては児戯めいたものとなるという危なさを示していると言えるのではないかと思う。

それ故に、この映画は児戯それ自体が持つアナーキーさ、奇妙なニヒリズムを示しているのではないかと思う。だが、考えてみればゴダールはいつだってアナーキーでありニヒルであったとも言える。自分の撮るものや自分の語ることと自分の実存を切り離して語っている、と言えばいいだろうか。だからこそ膨大な引用をできるのだろうし(あれだけ引用しておいて「他人の褌で相撲を取る」「虎の威を借る狐」となかなか思わせないのがスゴい)、だからこそ既存の映画の文法を徹底して破壊し尽くしあっさりとジャンプカットなんてものを発明してしまえるのだろう、と思うのだ。

それにしても、なぜタイトルは『ウィークエンド』なのだろう。これも意味深なようでありながら実は大した理由などないのかもしれない。ゴダールのやることはいつもそうだ。彼は頭の中で戦略を練り上げているようで、直感に任せて動く野生生物なのかもしれない。別の言い方をすればその野生は天才(「天」賦の「才」能)とも言えるわけで、だからゴダールを理解できないことを恥じる必要もないのではないかと思う。ウィトゲンシュタインが喝破したように、野生生物とのコミュニケーションは成り立たないのが当たり前だからだ。私も常にゴダールを「誤解」しているのだろうと思う。だが、その「誤解」はそれなりに生産的だとも信じているのだけれど。