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スパイク・リー『25時』

スパイク・リー『25時』を観る。どんよりしたものを感じさせる映画だった。ストーリー展開において必ずしも必要最小限のものだけで構成されているとは言い難い、どこかくどさを感じさせるものとして映ったのだ(女子高生にたぶらかされる高校教師の描写は、後に書く私の感想を踏まえても本当に必要だったのか、思い切って削ればタイトになったのではないか、というように)。そして重い。くどくて重いということは、この映画を観て胸がスーッとしたという意味のカタルシスを得ることにはならないということだ。だが、それはそれでこの映画の持ち味でもあるだろう。安直なカタルシスを選ばず、かといってバッドエンドでもなさそうなこの映画は位置づけが難しい。

モンゴメリーという白人が居る。彼はニューヨーカーで、麻薬の取引で生計を立てている(と思われる)。口は悪いが、瀕死の状態の犬を気に入ったからという理由で助ける優しさをも持っている。そんな彼は、ある日不意に警察官のガサ入れで自宅を襲われる。そこで彼は、ソファから尋常ではない量の札束と麻薬を押収される。彼がもちろん秘密にしていたものだ。彼は当然のことながら逮捕され、刑務所に送られることになる。その「ムショにぶち込まれる」までの(ほぼ)一日を時に過去を回想する形で描いたのがこの映画である。実にシリアスなドラマだ。では、この映画からなにを語れるだろうか。

この映画が公開された時、まだ9.11の記憶は新しいものだった。だからタリバンビン・ラディンまで射程に入れた主人公の排他性というか、「他者」への憎悪は生々しいものとして映る。スパイク・リーはそういう監督だな、と思う。『ドゥ・ザ・ライト・シング』でもアジア系の人物に黒人が差別感情を剥き出しにする様を恐れずに描いていたのを思い出す。綺麗事抜きでモンゴメリーのようなアイルランドアメリカ人を描写しようとすれば、どうしたって臓腑に溜め込んでいるどす黒い差別感情を語らせるしかないのだろう、と思わせる。それをむろん手放しで賛同することこそしないものの。

「しかし」というか「だからこそ」なのか、この映画ではオチを明かすことはしないもののモンゴメリーが奇妙な一夜を過ごし、いよいよ裁判所へと父の車で運ばれる時に面白い場面を入れてくる。ムショでは彼のような二枚目は同性愛者に狙われる、という風説を知ったモンゴメリーは顔を敢えてボコボコに殴らせるのだけど、その殴られた顔を見て通りのマイノリティたち(少なくとも白人ではない)微笑みかける。むろん、殴られた顔をあざ笑ってのことではないだろう。親しみをこめた笑いであり、モンゴメリーもそれに応える。その何気ない挿話めいた場面が忘れられない。

こだわってしまうが、この映画はそんなアイルランドアメリカ人の白人が彷徨った末に自分を取り戻すまでを描き、その果てにアメリカとはどういう国で彼が生きる人生とはどういう懐の深さを備えているものなのかを描写している、とすら言えるのではないかと思う。彼は父に、このまま逃げようとそそのかされる。逃げて、誰も知らない町で別名で生まれ変わればいい、と。その選択肢をモンゴメリーが選んだかどうかは観てのお楽しみということにしておくが、少なくともありえるかもしれない「もうひとつの人生」というものは見えたのだ。そして、それもまた立派な人生なのだ、と。

そう考えてみると、この映画はある日突然ムショにぶち込まれるというカフカ的(?)状況を描いていながら、実はそれぞれの人生はその人物の意志でどんな絶望的な状況でも、選べる選択肢が限られていても変えられるという話のようにも思うのだ。堅物の高校教師が、自分を(下心ありありで)誘惑してきた女子高生にあのような形で対応したのも保身だけを考えて生きてきた彼が、最後の最後に少しだけ自分に正直になったという受け取り方もできるのではないか、と。とはいえ、それでもこの彼の行動(というか彼の存在)自体そこまで必要なものなのか……削ればもっと面白くなった、と思ってしまう私はアマちゃんなのかな?