跳舞猫日録

Life goes on brah!

劇団ひとり『浅草キッド』

劇団ひとり浅草キッド』を観る。いきなり脱線するが、私は子どもの頃はひょうきん族派ではなくドリフ派だった。だからいかりや長介が『だめだこりゃ』という自伝を出した時も虚心に読んで、彼がテレビの世界に君臨したキングであったにも関わらず演芸場で芸を磨き続ける本物の芸人に対するリスペクトを貫き続ける姿が印象深く感じられた。あれほどの名を成した人でさえもリスペクトする芸事とは……『浅草キッド』を観ていて、私は改めて「笑い」という芸を磨き続けることの奥深さを知った気がした。その美学を今でも体現している生けるレジェンドとして今なお存在し続けるのが北野武という人なのかもしれないな、と思ったのだった(としたら「カッコつけすぎだろう」とも思うが)。


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とはいえ、『浅草キッド』の内容は決して明るいものでもなければ胸がすくものでもなく、どこか鬱屈した印象を感じさせる。個人的な鑑賞の範囲内で言えば村上龍の青春小説を読んでいるかのような気分にさせられるのだ。大学を辞め、フーテンのような暮らしをしていたたけしはある日浅草にある演芸場・フランス座を訪れる。彼の目的は深見千三郎に弟子にしてもらうこと。だが、たけしには持てる「芸」がなにもない。師匠の言葉に触発されたたけしはフランス座のエレベーターボーイとして働く傍ら、ひたすらタップダンスの芸を磨き続ける。そんなたけしの姿に深見は才能をいち早く見出す。だが、時代はもはや演芸場ではなくテレビ一色となりつつあった……というのがプロットである。

劇団ひとりの関わった映像作品を観ていないし、そもそもトーシロの私は監督というのがどういう作業をこなす人なのか全く知らない。だが、この映画を観ている限りでは抱いた印象として、実に精巧に作られた時計のような映画ではないかと思った。いや、脚本のバランスがやや悪いきらいはある。なぜたけしがここまでして芸人になろうとしているのか、モチベーションが伝わってこないのだ。そして、それ以前に大学を出るほどのインテリだったたけしがなぜ中退したのかも伝わってこない。これはつまり、たけしという男が抱えている青春時代特有の鬱屈が伝えられないままでいるということでもある。

だが、「だからこそいい」とも言えるわけだ。つまり、たけしという男を普遍性を持つ(今の若者にも「わかるわ~」と思わせる)人物として描くとしたら、むしろこの程度ののっぺりした造形の方が感情移入しやすいとも言える。そして、そのたけしをこの映画は多角的に描き出す。俳優陣の丁々発止のやり取りは流石に舞台を数多くこなし、芸人たちを見つめてきた劇団ひとりのホンをベースとしているだけあって笑いを誘う。つまり、会話のテンポはいいのだ。フラットな人物のテンポのいい会話……ということはそれほど重苦しくもならず、悪く言えばどこか空虚ではあるのだけれどこちらの心を掴むポップさはある、ということになるだろう。

ポップさ。それがこの映画を観て感じた魅力の正体なのかもしれない。つまり、「開かれている」映画である、と。どんどん成長を遂げていくテレビの世界、そしてその成長に乗っかって快進を始めるたけし。それとは対照的にそもそもストリップ目当てで来た客に見せる芸(むろん、だからこそ芸人のエンターテイメント精神が問われるのだが)にこだわりすぎ衰退していく深見。この両者の関係が明確に描写されて師匠と弟子が逆転したかのような関係にまで陥っていくことになる。だが、その逆転関係は陰惨にならずあくまで軽くパンチを効かせながら描写される。このフラットさとパンチの効き具合はなかなかいいなと思った。

それにしても志村けんといいビートたけしといい、子どもの頃私が心を奪われた人がどんどん神格化されていくのを見るのは不思議な感慨がある。そして、この映画のノスタルジーに例えば同じネットフリックスの映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』を重ね合わせてみたくなるのも決して私の勝手な妄想というわけではないかもしれない、とも思うのだ。つまり、どんどん「(任意の)あの時代」そのものをパッケージした映画が制作され、それに従って歴史修正主義的に過去が書き換えられる。もちろん、過去を虚心に見つめて学ぶ姿勢からこそ見える「今」もあるのでシニカルにこの風潮を嗤いたいとも思わないのだけれど……。