ミロス・フォアマン『マン・オン・ザ・ムーン』を観る。夭折したアメリカのコメディアンであるアンディ・カウフマンを題材にした映画だ。これで4度目くらいの視聴になると思うのだけれど、R.E.M.という私の大好きなグループの曲が使われているからという理由で最初に観た時、さほど楽しめなかったことを思い出す。その後アンディ・カウフマンについて調べた……わけではないのだけれど、ジム・キャリーがアンディをリスペクトしていることやあるいは映画をたくさん観て映画の観方がわかるようになってきたからか、この映画の渋味をそれなりに楽しめるようになったかなと思っている。だから今では好きな映画の1本の中に入る。
子どもの頃から自分だけの世界に浸り、かつ(矛盾するようだが)人を笑わせたい、人に楽しんでもらいたいというサービス精神旺盛なところがあったエキセントリックな少年アンディ・カウフマン。彼は長じて、場末のクラブで芸を披露するようになる。それがスカウトマンの目に留まり、彼はテレビ出演が決まる。あれよあれよと人気者になる……と思われたが、一度ウケるとそのネタしかさせてくれないテレビと視聴者の質の低さに失望したアンディは自分だけの笑いを追求するようになり、それはテレビのみならずリアル(?)を巻き込んで大騒ぎを起こすことになったのだった……というプロットである。
アンディ・カウフマンが活躍したテレビの世界について思いを馳せてしまう、そんな映画であるなと思った。というのは、今のネット(具体的にはYouTubeかな?)の世界ではリアルをそのまま編集することなく流すことが臨場感を感じさせ、かつ身近に感じさせるコンテンツとして映っているように思うのだけど、テレビがまだ権威だった頃はテレビ番組とはきちんとスタッフが知恵を集結させて作り上げられた「作品」だったのではないかな、とも思うからだ(今のYouTubeが手抜きとかそんな話ではない。それにYouTubeの世界でも作り込まれた番組を放送している人も居るだろうから、これは甘い考察になってしまうのだけれど)。
テレビが「作品」だったということは、この映画のアンディや彼をスカウトした男、それに放送作家や「ヤラセ」に乗ってくれた協力者たちが視聴者の読みを超えるものをどう作るか考え抜いた、その血と汗の結晶だったということを意味する。テレビ番組の中で喧嘩をしても、それがガチの喧嘩だったとしても「いや、これはテレビ番組だから」という言い訳が成り立つことを意味する。その言い訳の中で丸く収まってしまうともちろん面白くないので、アンディは更にそれを食い破ろうとする。自分の喧嘩がガチであることを語る。だが、同時にその「ガチ」という宣言が嘘でありうるという恐ろしい無間地獄を示してもみせる。
そのような、「ネタ」と「ガチ」あるいは「ベタ」が交錯した虚実皮膜が溶け合う不思議な境地を見せることこそがアンディが追求していたものではないかな、とも思ったのだ。だからこそ、彼が肺がんに罹ったことをカミングアウトしても誰も本気にしようとしない。あるいは、アンディが辿り着いたフィリピンでの民間療法で彼はまさしく医師のトリックを見てしまい、「ネタ」と「ガチ」の間で自分が騙されていたことを知るのである。この皮肉。人を騙すことを仕事としていた彼が、実は自分も騙される弱い存在であったことを思い知るのである。この苦い描写がこの映画を良作足らしめていると思った。
そして彼は亡くなるのだが、その後も彼が作り出したキャラクターが生き続け「I'm alive!」と嘯くステージを見せることでこの映画は終わる。それは生きることがともかくも素晴らしいものであること、人生を肯定し前向きに生きることが大事であることを伝えていると思った。アンディとやり合った悪役のレスラーがアンディの葬式に参加している光景も目を引いた。こんなに微笑ましい葬儀を見ることもそうないだろう。私は改めてテレビの世界、ショービジネスの世界(日本で言えば「お笑い」の世界)に魅力を感じさせられた。厳しい世界ではあるのだろうが、だからこそ彼らは活き活きしている。