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濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を観る。情けない話だが、私は実は濱口竜介を語れるほどコアに鑑賞を深めた人間ではない。『ハッピーアワー』も『寝ても覚めても』も1度ずつしか観ていないのだった。だが、『ドライブ・マイ・カー』はそんなアマちゃんの私でも楽しめる間口が広い映画だと思った(が、結構濡れ場がキツいので子どもには観せない方がいいと思う)。私はなにを隠そう30年くらい村上春樹のファンとして生きてきたので、この映画化はとても興味深いものとして映った。もちろん問題もある。だが、単に表層を舐めただけの映画化として終わってはいないところは流石だなとも思ったのだった。


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テーマを粗く整理するなら「喪失と再生」ということになるだろう。演劇の俳優及び舞台演出家として活躍する家福という男を主人公に据えたこの映画は、まず彼の妻である音が亡くなるという出来事を冒頭に据える。そこから時間を飛ばしつつストーリーは展開していき、家福が演出するチェーホフの『ワーニャ伯父さん』のストーリーと現実のストーリーが時に微妙にシンクロする形で語られていく。そこから村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」や「シェヘラザード」が召喚されてストーリーは更に混沌としたカオスを映し出していく。これがこの映画のプロットである。

「喪失と再生」はなにも家福が妻を失ったことだけに限った話ではない。この映画では家福と過去に交際のあった(そして、音の不倫相手ではないかと疑わずにはいられない)高槻という男が登場する。彼もまたキャリアをステップアップさせる段階で躓き「喪失」を味わった人間であり、それ故に「再生」を賭けて家福の厳しいしごきに耐えてワーニャ伯父さんを演じようと目論むのだった。あるいは、家福の車を運転する役割を務める渡利みさきもまた(彼女が後に述懐するように)「喪失」を味わってしまった人間で、故に「再生」を目指して家福と親睦を深めていく。

そうして、三者三様の「喪失と再生」が微妙に軋みながら語られていくところにこの映画の味があると言える。悪く言えば実に計算高く作られたあざといホンがベースになっているとも言える。この映画ではそうした登場人物たちが軋み合う様が強調される仕掛けがもうひとつある。それは『ワーニャ伯父さん』が外国人や聾唖者たちとのディスコミュニケーションを通した演劇として結実するところにある。手話や外国語が入り乱れるカオスな、それでいてその中にきちんとした美学が貫かれた演劇として描かれるのだ。このディスコミュニケーションぶりは特筆に値すると言える。

「喪失と再生」、そして「ディスコミュニケーション」。これは『ハッピーアワー』で震災を描きそこから「喪失と再生」を描いた濱口竜介監督らしいテーマだと言える。いや、こんなガバガバにゆるいキーワードを貼り付けてドヤ顔でなにかを語る私のような人間こそちゃんちゃらおかしい、というものかもしれない。が、一歩間違えるとセンチメンタルなお涙頂戴に陥りがちなテーマをここまで品をキープしながら3時間引っ張ることができているのだからこれは濱口監督の力量の表れと言えるのではないか。私自身、時に退屈しかけたところがあったもののこの映画を楽しむことができた。

だが、手放しでのめり込めたかというとそうでもなかったのだから私はひねくれ者なのかなとも思う。やはり長過ぎるというのもあるし、この長さを退屈させることなくフックを工夫して釣っていくにはこの映画は謎がなさすぎるような気もしたのだった。音の秘密もみさきの家族の過去も、カットバックを交えて語られるでもない。平坦に「今」から「未来」へと一直線に流れる時間の中に押し込まれるだけで、したがって物語的な面白さ/エンターテイメントとしては今ひとつフラットに過ぎるのではないかな、と思う。このあたり、多分に好みの問題もあるのかもしれないのだが……。