跳舞猫日録

Life goes on brah!

セオドア・メルフィ『ムクドリ』

セオドア・メルフィムクドリ』を観る。この監督の映画はなぜか好きだ。洒脱だし、ド派手なことをやっているわけでもないのに心に残る。それはきっとこの監督の映画が「生っぽい」からだろう。登場人物が活き活きしていて、自由闊達に生きている人たちがぶつかり合っている印象を受けるからだと思うのだ。ネットフリックスで配信されているこの『ムクドリ』も、観ていて「少しわかりにくくなったんじゃないか」とも思ったのだけれどそれでも飽きなかった。白人や黒人、子どもやアジア系の人物など多様な人々が個性を「さり気なく」主張している。そこを買いたいと思った。

「わかりにくくなったんじゃないか」と書いた。この映画はストーリーを曖昧にしか提示しない。その意味で、例えばビル・マーレイのちょいワル爺さんが実は妻の介護に献身的だったというギャップで魅せた『ヴィンセントが教えてくれたこと』や、NASA女性差別の壁にぶつかりながら自分たちの実力を見せつけようと奮闘する女性数学者たちの姿を描いた『ドリーム』ほどには「甘く」ない。よく言えばそれだけ「深く」なったとも言えるし「渋く」なったとも言えるのだけれど、この映画は果たして「ウケる」のかどうか。それが心配な出来だとも思った(現に私のチェックしているサイトでは低評価も見受けられる)。

さて、「日薬」という言葉がある。雑駁に言えば「時間が過ぎると物事は解決する」「時が心の傷を癒やす」というような意味になると思うのだけれど、考えてみればこれほど残酷な言葉もないと思うのだ。いつだって人が求めるのは速攻/速効で効くなにかである。今苦しんでいるこの苦しみを根こそぎ解消してくれるなにかである。しかし、その苦しみにともかくも耐えなければならない場合もあるし、それが「今」であると言われたってそれはなかなか承服し難いものではないだろうか。耐えている内についに自分が死んでしまう、ということだって起こらないとも限らないのだから。

ムクドリ』は、ひとり娘を失った夫婦の心が癒えるまでを描いたドラマである。だが、彼らはセラピストのところに行ったりするもののそこで効果的な言葉を聴くわけではない(彼らの前に現れるセラピスト自身、過去に無力を痛感して匙を投げた人でもある)。彼らは例えば攻撃的なムクドリと戦い、ヘルメットを装着して退治/駆除しようとする。ムクドリは言うまでもなく「自然の摂理」に従って生きている動物である。故に、人間の善悪の彼岸を超えた存在である。しかし私たちが生きているこの地上も、そういった「善悪の彼岸」を越えた自然にこそ取り囲まれた空間なのではないだろうか。

だというのであれば、彼らが娘を亡くしてしまったこともムクドリに襲われることも「善悪の彼岸」を越えた「自然の摂理」の出来事として、それを受け容れる余地が必要とされる。平たく言えばそうやって人は「大人になる」わけだ。ちょうど、憎きムクドリが実は自分の子を守る親鳥の立場でもある、と気づくように……そうやって「大人になる」「一皮剥ける」過程がこの映画では描かれている。だが、その「大人になる」「一皮剥ける」ドラマは勧善懲悪の図式の中に収めることは極めて難しい。この映画がどこか抽象的でとっつきにくい印象を与えるのはそのせいでもあると思う。

だが、そこは流石にセオドア・メルフィ。細かいギャグも散りばめており、こちらを飽きさせない仕掛けを凝らしている。だから私は楽しむことができたし、彼が『ヴィンセントが教えてくれたこと』『ドリーム』から更にワンラックアップした事柄を描こうとしているようにさえ感じて好ましく思った。しかし人に薦めにくい映画であることもまた確かなのでそこが痛し痒し。これからセオドア・メルフィの映画を観たい人に薦める映画だとは思わなかった。この監督がこの映画で見せた境地を血肉化し、再びカラッと明るいムードの映画を撮ってくれたらと「ないものねだり」をしてしまう。