跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/04/09

2022/04/09

浅田彰はかつて、村上春樹の作品を腐して「貧乏臭い」と形容したことがある。この発言について考えると淀川長治成瀬巳喜男を形容して「あんな貧乏臭い監督」と語ったことを思い出す。どうやらある種の人々にとって、この「貧乏臭い」という言葉は便利な形容詞であるらしい。私はずっと「貧乏」と付き合って生きてきた。いや、それを誰かのせいにしたいとは思わない。要領のいい人はこんなコロナ禍でも稼いでいるし、自助努力を積み重ねて自分をステップアップし続けている。私が「貧乏」なのは私のせいだ、と自分に言い聞かせて私は生きている。

そんな貧乏な私としては、「貧乏臭い」村上春樹成瀬巳喜男に親近感を覚えてしまう。彼らが「貧乏臭い」のは、やはり彼らが「要領のいい」作り手ではないからだと思う。いや、両者とも日本を代表するクリエイターだと思うが彼らの作るものは微妙に「洗練された」ものではありえない。成瀬の映画はそんなに詳しくないので間違いがあるかもしれないが、少なくともゴダールの映画のような人をナメたユーモアがなくどこか悲愴で、切実かつ生真面目に自分のメッセージを伝えんとしている。そんな姿勢が人からすれば「貧乏臭い」と映るのだろうと思う。

思い出されるのは、例えば小西康陽小山田圭吾といった造り手がそのリッチさというか、「貧乏臭」さと対極にある悠然とした優雅さで数多とあるレコードを選び抜きそのスノッブな好みを見せびらかしていたこと。私も彼らを真似してヴァーチャルなDJを気取ってわかりっこない音楽を浴びるように聴いたことを思い出す。結局それは身につかなかったわけで、私は今のように粛々と本を読み映画を観るという極めて「貧乏臭い」生活を送るようになってしまった。「貧乏」で何が悪い、「貧乏臭い」人間でたくさんだ、と居直って生きている(さぞかしカッコ悪いだろうな、と思うのだけれど)。

と書いて、この「貧乏臭い」という感覚は特に外国人に伝わりうるものだろうかと不安になってきた。例えばネットフリックスでドラマ化までされた『メイドの手帖』で綴られる主人公の窮乏した状況を連想してもらって、生活にゆとりを持ちえないがゆえにセンスが鈍ってしまい結果的に「ダサく」なると説明するしかない。私もまた「貧乏」ゆえに好みがどんどん「ダサく」なっているだろうな、と思う。だが、「ダサい」ことを以て人をことさらにバカにする姿勢もまた「ダサい」とも言える……何の話をしていたんだっけ。結局「貧乏」っていかんなあ、と書いて今日はお茶を濁して終わらせることにする。